【ツッコミ】親鸞学徒の鑑:蓮如上人(93)(三願転入の道)ー親鸞会流三願転入の教えは否定します

親鸞学徒の鑑:蓮如上人(93)(三願転入の道)

を見てみると、相変わらずの珍説が並べたてられております。引用してツッコミを入れてみましょう。

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「親鸞学徒の求道の道とは、
 三願転入の道である。
 若し三願転入を否定する者あらば、
 それは弥陀の本願を否定し、
 釈迦一代の教を否定し、
 七高僧を否定し、
 親鸞聖人の教えを否定する、
 仏教の門戸も知らぬ
 浅ましき外道である」
  
三願転入の否定は
弥陀の本願を否定し、
釈迦一代の教を否定することになる。

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親鸞会ではやたらと「求道」と言いますが、他力回向の教えに、信心獲得するまでに衆生の側で通っていかねばならぬ、求めていかねばならぬ「道」というものはありません。こちらが求めるより先に与えられている法を聞くのが真宗です。それを求道などと言って、会員に善もどきの善をやらせて獲信の妨げをしているのが親鸞会です。会員はすっかり騙されて、他力回向の教えを誤解して自力回向の教えと理解しているのです。なぜこのような誤解が生じるのかと言えば、(1)いつもの縦と横の線、(2)オリジナル二河白道の譬、(3)弥陀の救いと世間事との混同、などでしょう。
(1)に関しては、横の線を指して「この道を通って」、次に縦の線を指して「ここがゴール、ここが決勝点、ここが卒業」という説明を何十回、何百回と繰り返し聞き、また人にも話していれば、「この道を進んで、やがて縦の線に辿り着いて救われるんだな」という理解にしかなりません。ただ今、ここで、私が救われるだなどとは到底思えなくなるでしょう。
(2)に関しては、高森会長の話す二河譬では、白道の中間まで行かなければ弥陀の喚び声が聞こえないという設定になっております。そこまでは火の河・水の河(煩悩)と闘って進んでいくと教えられるため、会員は求道にもならぬ求道をしているわけです。本当の二河譬では、行者は白道に乗る手前で西岸上の人(阿弥陀仏)の喚び声を聞いております。そして白道に一歩踏み出した時が捨自帰他です。親鸞会の二河譬は様々に間違っているのですが、会員は正しいと思い込んでいるため、善をして求道していかなければ救われないと只今の救いを撥ねつけているのです。二河譬について詳しくは、『親鸞会教義の誤り』宿善とは7宿善とは8をご覧ください。
(3)に関しては、例えば何か芸事を熟達するにしても一朝一夕にはいかないとか、家一軒建てるのでも大変なのにまして後生の一大事が簡単に解決するはずがないとか、世間事と比較して「だから後生の一大事の解決は一朝一夕にいかないんだ」と説くことで、ますます只今無条件の救いを信じられなくなってしまうのです。

さて、私は三願転入は否定はしませんが、親鸞会でいう「三願転入の道」とやらは否定します。「三願転入の道」というのは、18願の世界に出るのに通らねばならない19願・20願の道、ということでしょう。通らねばならないとは、つまり19願・20願の行を実践しなければならないというものです。ところが、18願の救いを求める人に対して「18願の救いにあずかるに、19願の善を精一杯せよ、20願の念仏を励め」などという教えは真宗にはありません。このような珍説を唱える者こそ、このブログの著者が言っているように「それは弥陀の本願を否定し、釈迦一代の教を否定し、七高僧を否定し、親鸞聖人の教えを否定する、仏教の門戸も知らぬ浅ましき外道」です。


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濁世の群萠、穢悪の含識とは
全ての人をさす。
全ての人は始めから
真実に出会える人はいない。

九十五種の邪道とは
仏教ではない外道をいい、
殆どの人が外道に
迷っている人ばかり。

それが仏縁あって半満・権実の法門を
求めるようになるのである。
半満権実の法門とは
阿弥陀仏の本願以外の仏教をいい、
聖道門自力の仏教をいうのである。

仏教に出会えても、
それは聖道権仮の方便の教えを
聞いている人ばかりなのだ。
だから、真実を知り、
真実を求め、真実を獲得する人は
皆無であると親鸞聖人は
嘆いておられる。

そして、ウソ、偽りのものばかりを信じて、
苦しみ悩んでいる人が満ち溢れているのだ。

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どうも著者の文章だと、全ての人はまず聖道門に入るような印象を受けます。そして聖道門のことを「ウソ、偽りのもの」と言っているように読めますが、読者の皆さんはどうでしょうか?
ならば親鸞会の会員はまず聖道門に入っているのかというと全くそうではありません。「濁世の群萌」「群生海」などとあれば何でもかんでも「全ての人」と訳して、全ての人がそうであるかのように説くのはよろしくありません。また、聖道門は「ウソ、偽りのもの」でもありません。聖道門は仏説ですから殊勝の法であり、それをウソ、偽りと言うことは謗法罪になります。

・それ、諸宗のこころまちまちにして、いづれも釈迦一代の説教なれば、まことにこれ殊勝の法なり。もつとも如説にこれを修行せんひとは、成仏得道すべきことさらに疑なし。(御文章3帖目2通)
・そもそも、当流念仏者のなかにおいて、諸法を誹謗すべからず。まづ越中・加賀ならば、立山・白山そのほか諸山寺なり。越前ならば、平泉寺・豊原寺等なり。されば『経』(大経)にも、すでに「唯除五逆誹謗正法」とこそこれをいましめられたり。これによりて、念仏者はことに諸宗を謗ずべからざるものなり。(御文章1帖目14通)


ただ、私にはそう読めるだけで、著者は実際は聖道門をウソ偽り呼ばわりしていないのかも知れません。

ところで、著者は聖道門を「権仮の方便の教え」と言っていますが、同様に19願の教説、『観経』では定散二善の教えも「権仮の方便の教え」です。

これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。(化身土文類)

ですから、聖道門と同様に19願も、18願の救いを求める人にとっては捨て去られるべき法門ということになります。著者は権仮方便が分かっているのか分かっていないのか、今一つ理解しかねますが、後の文章を読めば、聖道門は不要だが19願は必要だという主張で、やはり分かっていないことが伺えます。


********************
このような世相は釈尊は百も御承知、
そこで群生海・すべての人々を
18願の世界に誘引する為に
説かれたのが福徳蔵の教えであり、
観無量寿経のご説法なのである。

(中略)

お釈迦様が一切経で善を勧められ、
その全ての善を
観無量寿経一巻に
定散の二善にまとめられ
韋提希夫人に勧められたのは、
偏に、阿弥陀仏の19願の御意を
開顕する以外には
なかったのである。

19願は十方衆生を
18願に誘引する為に
建てられたのであることは
明々白々である。

********************

親鸞聖人の要門釈のお言葉を読めば、外道を離れて聖道門に入った人を誘引する願が19願だということで、既に18願の救いを求めている人にまで19願の善、定散二善を勧められているのではありません。親鸞聖人のお勧めは18願による真実報土への往生、成仏でありますが、「化身土文類」にある19願・20願の行は勧められていません。なぜなら、19願・20願とは、真実報土とは異なる方便化土へ往生する行信を教えられたものだからです。

つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。(化身土文類)

「化身土文類」はこのように方便化身土を顕されるところから始まり、途中で挙げたお言葉のように方便化土へ往生する(とどまる)行信、すなわち19願・20願が教えられているのです。化土を誡め報土を勧められたのが親鸞聖人ですから、方便化土へ往生する行である19願の善、定散二善を勧められている訳がないのです。それでも高森会長は、釈尊が韋提希に定散二善を勧め、韋提希は定散二善に取り組んだように説きますが、これも根拠のない珍説です。『観経』を読めば、韋提希が定善に取り組んだなどとは全く説かれていないことが分かります。親鸞聖人が勧められていない19願の善(と称した献金と勧誘)を勧め、親鸞聖人が勧められている選択本願の念仏を説かない高森会長の教えが「珍らしき法」であることは明々白々です。

ウソ、偽りのものばかりを信じて、苦しみ悩んでいる会員が満ち溢れています。高森会長だけはまことと堅く信じていることでしょうが、そんな信心ほどあやしいものはありません。会員は今こそ

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せは候ひしか。(歎異抄)

のお言葉を噛み締めるべきです。まことは念仏のみ、他はすべて「そらごとたはごと、まことあることなき」です。あとは、それを聖人のお言葉通り信じられるかどうかでしょう。
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No title

ここまで来ると怒りやら情けなさを通り越して笑うしかないですね。
「奥越学徒」の著者は私はよく知っていた人で、昔は尊敬していました。
でも親鸞会を長く続けていると「高森先生信心」が染み付いて、外部からの
批判、忠告に一切聞く耳を持たなくなるのでしょう。
 恐らく淳心房さん他いろんな人のブログに目を通しているはずだと思いますが
理屈も根拠も関係なしの「高森先生に間違いない信心」は根深いと思います。

 しかし何でこんなに力んだり、人を見下したり、排他的な文章しか書けないの
ですかね。自身の無さの裏返しのようにも感じられます。

>名無し様

排他的になるのは、他を攻撃することが最大の防御だからでしょう。会の外に敵を作って攻撃し、会員の目を外に向けさせることで内への疑問を起こさせにくくしているのです。現存の情弱会員、従順会員を批判サイトなどに触れさせないで流出を防ぐのが狙いと考えられます。
仰る通り「高森先生信心」は相当根深いですね。あるいは何十年と仕えてきて今さら間違いだと言われても戻れないとか、他にも理由はあるかも知れません。いずれにせよ、理屈では通じ難い人達です。何とかMCから覚めてほしいと願わずにはいられません。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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