蓮如上人と三願転入にどのような関係が??

浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集いでは、昨日の記事にも紹介しましたが『親鸞学徒の鑑:蓮如上人(93)(三願転入の道)』などと題して親鸞会流三願転入の教えを懲りもせずに書き続けています。友人から「蓮師と何の関係があるのか知らんが…」というメールをもらいましたが、全く同感です。
蓮如上人と三願転入を関係づけることがそもそも間違いなのです。第一、蓮如上人は三願転入について仰っていませんし、後生のために、他力の信心を獲るためには三願転入しなければならないなどとは一言も書かれていません。『御文章』を読んでみれば明らかです。それどころか、後生のために、信心獲得のためには定散二善等の雑行・雑善を投げ捨てて、一心一向に弥陀に帰命せよとばかり書かれているのです。その根拠は80通のお手紙の中でも何か所も書かれていて挙げれば長くなってしまいますが、これから何回かに分けて蓮如上人のお言葉を紹介していきたいと思います。

 当流、親鸞聖人の一義は、あながちに出家発心のかたちを本とせず、捨家棄欲のすがたを標せず、ただ一念帰命の他力の信心を決定せしむるときは、さらに男女老少をえらばざるものなり。
 さればこの信をえたる位を、『経』(大経・下)には「即得往生住不退転」と説き、『釈』(論註・上)には「一念発起入正定之聚」(意)ともいへり。これすなはち不来迎の談、平生業成の義なり。
 『和讃』(高僧和讃・九六)にいはく、「弥陀の報土をねがふひと 外儀のすがたはことなりと 本願名号信受して 寤寐にわするることなかれ」といへり。
 「外儀のすがた」といふは、在家・出家、男子・女人をえらばざるこころなり。つぎに「本願名号信受して寤寐にわするることなかれ」といふは、かたちはいかやうなりといふとも、また罪は十悪・五逆、謗法・闡提の輩なれども、回心懺悔して、ふかく、かかるあさましき機をすくひまします弥陀如来の本願なりと信知して、ふたごころなく如来をたのむこころの、ねてもさめても憶念の心つねにしてわすれざるを、本願たのむ決定心をえたる信心の行人とはいふなり。
 さてこのうへには、たとひ行住坐臥に称名すとも、弥陀如来の御恩を報じまうす念仏なりとおもふべきなり。これを真実信心をえたる決定往生の行者とは申すなり。(御文章1帖目2通)


親鸞聖人の一義とは、不来迎の談、平生業成の義です。それは「即得往生住不退転」とあるように、第18願の教法を指しています。対して第19願とは臨終来迎を誓われた願であり、不来迎の談、平生業成の義ではありません。

・不来迎のことも、一念発起住正定聚と沙汰せられ候ふときは、さらに来迎を期し候ふべきこともなきなり。そのゆゑは、来迎を期するなんど申すことは、諸行の機にとりてのことなり。真実信心の行者は、一念発起するところにて、やがて摂取不捨の光益にあづかるときは、来迎までもなきなりとしらるるなり。されば聖人の仰せには、「来迎は諸行往生にあり、真実信心の行人は摂取不捨のゆゑに正定聚に住す、正定聚に住するがゆゑにかならず滅度に至る、かるがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」(御消息・一意)といへり。この御ことばをもつてこころうべきものなり。(御文章1帖目4通)
・諸行往生の機は臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず。このゆゑにこの穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりてそのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。(口伝鈔)


とある通りです。19願の行者は諸行往生の機であり、臨終の来迎を期待しなければ胎生辺地までも生まれることができません。ですから真宗に19願の勧めなどありはしないのです。

さて、蓮如上人は『高僧和讃』を引いて不来迎の談、平生業成の義を懇ろに諭されます。まず和讃では「弥陀の報土をねがふひと」と言われ、18願による報土往生を願う人はこのようにしなさいということが教えられています。

「外儀のすがたはことなりと」とは、「外儀のすがた」といふは、在家・出家、男子・女人をえらばざるこころなり」から分かるように、一切の人々がその姿形、資質、才能などは異なれど、その違いは選ばない、差別しないということです。

『「本願名号信受して寤寐にわするることなかれ」といふは、かたちはいかやうなりといふとも、また罪は十悪・五逆、謗法・闡提の輩なれども、回心懺悔して、ふかく、かかるあさましき機をすくひまします弥陀如来の本願なりと信知して、ふたごころなく如来をたのむこころの、ねてもさめても憶念の心つねにしてわすれざるを、本願たのむ決定心をえたる信心の行人とはいふなり』ですから、どのような罪の重い者であっても、回心懺悔して、弥陀如来の本願を信知しなさいと教えられているのです。「三願転入の道を進みなさい、定散二善に励みなさい、19願を通らねば18願にはアリ一匹入れないのだ」などということは少しも教えられていません。「弥陀如来の本願」とは第18願のことですから、18願一つお勧めになっています。

では、弥陀如来の本願を信知しようと思うなら、どうせよと教えられているでしょうか。19願の善をせよ、定散二善をせよ、やらねば信仰は進まないなどと教えられているのでしょうか。蓮如上人に聞いてみましょう。

 問うていはく、さてかやうに弥陀如来のわれらごときのものをすくはんと、たびたび願をおこしたまへることのありがたさをこころえわけまゐらせ候ひぬるについて、なにとやうに機をもちて、弥陀をたのみまゐらせ候はんずるやらん、くはしくしめしたまふべきなり。
 答へていはく、信心をとり弥陀をたのまんとおもひたまはば、まづ人間はただ夢幻のあひだのことなり、後生こそまことに永生の楽果なりとおもひとりて、人間は五十年百年のうちのたのしみなり、後生こそ一大事なりとおもひて、もろもろの雑行をこのむこころをすて、あるいはまた、もののいまはしくおもふこころをもすて、一心一向に弥陀をたのみたてまつりて、そのほか余の仏・菩薩・諸神等にもこころをかけずして、ただひとすぢに弥陀に帰して、このたびの往生は治定なるべしとおもはば、そのありがたさのあまり念仏を申して、弥陀如来のわれらをたすけたまふ御恩を報じたてまつるべきなり。これを信心をえたる多屋の坊主達の内方のすがたとは申すべきものなり。(御文章1帖目10通)


「善をすれば信仰が進み、獲信に近づく」というような心は、ひとえに本願力の回向によって救うと誓われた第18願に反して、自力の善が獲信に近づくのに役立つとあて力にする心です。これを「もろもろの雑行をこのむこころ」というのです。それは「もののいまはしくおもふこころ」と同じく「すて」と教えられています。「余の仏・菩薩・諸神等にもこころをかけずして」と仰っているのと同様に、諸行・諸善にもこころをかけてはならないのです。

 これによりて、その信心をとらんずるやうはいかんといふに、それ弥陀如来一仏をふかくたのみたてまつりて、自余の諸善・万行にこころをかけず、また諸神・諸菩薩において、今生のいのりをのみなせるこころを失ひ、またわろき自力なんどいふひがおもひをもなげすてて、弥陀を一心一向に信楽してふたごころのなき人を、弥陀はかならず遍照の光明をもつて、その人を摂取して捨てたまはざるものなり。(御文章2帖目2通)

信心獲得しようというなら、「諸善・万行にこころをかけず」と教えられています。蓮如上人の教えに19願の勧めがあるのかないのか、三願転入の道とやらを説かれているのかいないのか、明々白々ですね。


18願一つを勧められた蓮如上人は「三願転入の道」とやらを説いておらず、逆に定散二善などの諸善を「雑行・雑善」ときらって「後生のため、獲信のためには投げ捨てよ」と教えられていますから、「三願転入の道」を否定しています。親鸞会の理屈から言えば、そんな蓮如上人は

 それは弥陀の本願を否定し、
 釈迦一代の教を否定し、
 七高僧を否定し、
 親鸞聖人の教えを否定する、
 仏教の門戸も知らぬ
 浅ましき外道である


ということになるでしょう。いい加減謗法の限りを尽くすのは止めてもらいたいと思います。



【補足】
親鸞学徒の鑑:蓮如上人(94)(三願転入を否定する者あらば)にて、ブログの著者が何やら疑問を投げかけていますが、既に『親鸞会の邪義を正す』会員との問答(19願・諸善・方便)等で論破されている通りです。参照して下さい。
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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