蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(2)

蓮如上人は、後生のため、往生のため、獲信のために必ず通らねばならぬ道があるなどとは教えられていません。その道を進むために19願の善をせよとも教えられていません。全く祖師、蓮師の教えられていない珍らしき法を親鸞会は教え、会員に善もどきの善を勧めて獲信を妨げています。本日は蓮如上人と三願転入にどのような関係が??に続き、蓮如上人のお言葉を通して親鸞会流三願転入の教えなど真宗にはないことを見ていきたいと思います。

 しづかにおもんみれば、それ人間界の生を受くることは、まことに五戒をたもてる功力によりてなり。これおほきにまれなることぞかし。ただし人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。
 たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。
 そもそもその信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす。
 その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。かやうに信ずる衆生をあまねく光明のなかに摂取して捨てたまはずして、一期の命尽きぬればかならず浄土におくりたまふなり。この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。
 さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、往きやすの浄土や。これによりて『大経』(下)には「易往而無人」とこれを説かれたり。
 この文のこころは、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へは往きやすくして人なし」といへるはこの経文のこころなり。  
 かくのごとくこころうるうへには、昼夜朝暮にとなふるところの名号は、大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり。かへすがへす仏法にこころをとどめて、とりやすき信心のおもむきを存知して、かならず今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり。(御文章2帖目7通)


人界の生はわずかに一旦の浮生であり、栄華栄耀をきわめても盛者必衰会者定離のならいで長続きしません。しかも老少不定ですから、まことたよりになるものがありません。そういう世の中ですから、「今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり」とお勧めになっています。では、他力の信心をえて浄土の往生を遂げるにはどうせよと教えられているでしょうか?

そもそもその信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす。

智慧、才学、富貴、貧窮、善人、悪人、男子、女人等、人間には一人一人、ありとあらゆる差別があります。他力の信心をとるのに、それらすべての差別はない、智慧や才学のあるなしは関係ない、というのが「さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず」ということです。なら、何が問題なのかというと、次に「ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす」と仰っています。

雑行についてWikiarkより引用しますと、
正行に対する語。雑は邪雑、雑多の意味で、本来はこの世でさとりを開くことをめざす聖道門の行である諸善万行を往生行として転用したものであるから、このようにいう。化土の業因であるとされている。
ということです。もともと往生行ではない諸善万行を至心・発願・欲生の心で行ずるから浄土方便の善と言われますが、これは化土の業因であって、親鸞会の人が誤解しているように横の道(本来は横の道などないのですが)を進むためにやらねばならない善ということではありません。
さて、繰り返しますが、定散二善などの諸善万行(雑行)は方便化土の因であって真実報土の因ではありません。そして阿弥陀仏の光明は雑行を修める行者を照らし摂めませんから、雑行と名づけてきらわれ、捨てよと教えられるのです。

経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。(化身土文類)

では正行とはどういうことかと言えば、これもWikiarkより引用しますと、
正当純正なる往生行。浄土教では、とくに阿弥陀仏に対する読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五を、阿弥陀仏に関係のない諸善万行(雑行)に対して正行という。
ということです。なお、「じゃあ五正行(親鸞会ではおつとめを五正行に充当している)をやっていればいいのか」と早とちりする人がいるといけませんので、正行に帰するとはどういうことか、『御文章』の続きを読んでみましょう。

その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。かやうに信ずる衆生をあまねく光明のなかに摂取して捨てたまはずして、一期の命尽きぬればかならず浄土におくりたまふなり。

阿弥陀仏の救いにあずかるに、衆生の側で何か用意しなければならないというものではありません。善をしてできない自分が知らされるとか、後生の一大事に驚きがたつとか、こちらが何かしてそういう状態にならなければならないということではありません。私を往生成仏せしめる用意は如来の方で既にされていますので、私の側からは何も要りません。なので「なんのやうもなく」です。
私を往生成仏せしめる用意とは、弥陀が五劫の思惟、兆載永劫のご修行の末成就された南無阿弥陀仏の名号のことです。「南無(我をたのめ)阿弥陀仏(必ず救う)」の大悲招喚の勅命を計らいなく聞き受けたすがたが弥陀を一心一向にたのむすがたですから、正行に帰するとは本願の名号を疑いなく聞き受け、阿弥陀仏の光明に摂取されたことを言うのです。そうなった人は、この世の命が尽きたら必ず浄土へ往生し、成仏すると教えられています。
往生のために私が用意するものは何もなく、ひとえに如来の誓願を計らいなく聞き受けた一念の安心一つで浄土に往生するとは、何と易いことでしょうか。

この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、往きやすの浄土や。

蓮如上人のお言葉の通りです。逆にこのような本願でなければ、「かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらもの(御文章1帖目3通)」である私は到底助かることはありませんでした。何と有難く、かたじけないことでしょうか、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

では、そんな「こころえやすの安心」なら、どうして信心獲得する人が少ないのでしょうか? もし貴方が信心獲得できずに「何と信を獲るとは難しいのか」と思っているなら、どうして「こころえやすの安心」と言われるのか疑問がおきませんか? それは、ひとえに本願力によって助けると誓われた他力本願、他力回向の教えをそのまま聞かず、こちら側で様々に疑い計らっているからです。
「修めた善や称えた念仏が少しは救いの足しになるだろう」
「善をやらんよりやった方が早く救われるだろう」
「さすがの阿弥陀仏でも、今のままの私を助けることはできないに違いない」
「自力の計らいを捨てなければ、他力に帰すことはできない。自力の計らいをどうするか」

せっかく本願力回向の教えを聞いてはいても、このような計らいで撥ねつけて如来の勅命を聞かず、背を向けて逃げまどう者が沢山あります。私もその一人でした。自力の計らいをすてて真実信心を獲る人は稀ですから、

これによりて『大経』(下)には「易往而無人」とこれを説かれたり。この文のこころは、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へは往きやすくして人なし」といへるはこの経文のこころなり。

と蓮如上人は教えられています。

自力の計らいは自分ではどうにもならないのに、自力を何とかしようともがいて如来の勅命を聞かないのは実に勿体ないことです。もし方便の善をしなければ捨たらないようであれば、「自力を捨てるために善をしなさい」と教えられるはずです。そうではなく、自力は本願を聞くところに捨たる、本願力によって捨たるのですから、「さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし」と重ねて教えられているのです。

親鸞会の三願転入の教えは、蓮如上人の教えからは出て来ようがない「文底秘沈の教え」です。会員は善もどきの善の勧めでますます本願力を疑い、「とりやすき信心」を「とりにくき信心」にしてしまっていると言えます。善を修めたら修めただけ、「救いに近づいているはずだ」「何もやっていないよりは、たいして聴聞や破邪顕正、財施をしていないあの人よりは早く救われるだろう」という思い(自力の計らい)は強まるだけです。会員さんはこの2帖目7通の始めのお言葉をよく噛み締めて、親鸞会の教えで自分は今救われることができるのか、真剣に考えて頂きたいと思います。
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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