【補足】縦の線・横の線と人の図

昨日の記事縦の線・横の線と人の図についてぺんぺん草さんからコメントを頂きました。

それで本日は、

【「たとひ万行諸善の法財を修し蓄ふといふとも、進道の資糧となるべからず」ですから、親鸞会で推進される活動にどれだけ一生懸命に努めていても、一歩も横の道は進めないのです】

と書いたことについて少し補足させて頂きます。



まず「横の道」ということですが、ぺんぺん草さんのように「横の道はない」と理解されている方には問題ないのですが、親鸞会会員は状況が違うと思います。

自分が会員だったとき、自分も周りの人も「横の道を進む」という表現を使っていました。「横の道を進む」という言葉をどんな意味で使っていたかを考えてみますと、

・縦の線(信一念)に近づく
・宿善が厚くなる
・信仰が進む
・19願・20願と進んでいく(三願転入の道を進んでいく)
・法鏡に近づく

などの意味で使っていたと思います。これを踏まえてコメントに答えさせて頂きます。



>そもそも、「横の道」はあるのでしょうか。阿弥陀仏の救いはただいまの救いなのでしたら、救われているか救われていないかのどちらかで、救いまでの距離が長かったり短かったり、ということはないと思います。

仰る通りです。阿弥陀仏の救いは、ただいまの救いです。

ですから、「宿善が厚くなる」と言ったり、黒板の図を使って「法鏡に近づけば近づくほど自分の姿が知らされてくる」と話す高森会長の説き方は、救いまでの距離に長い短いがあるかのように思わせる説き方で不適切です。

これについては昨日の記事でも「平生業成に反する」と書きました。



>「横の道」というものが浄土真宗の教えにないとすると、「進道の資糧となるべからず」の「進道」を親鸞会の言う「横の道」だと解釈するのはおかしいことになります。
>このお言葉を短くまとめると、「自力の諸善は進道の資糧とならないが、他力の念仏は出離の資糧となる」となります。このことからすると、「進道の資糧」というのは、「出離の資糧」と同じような意味で言われていると思います。よって「進道」というのは、六道出離や往生浄土のことを言われているのではないでしょうか。


これも仰る通りです。

高森会長は、本来はないものである「横の道」を主張しますが、ない道なので当然進めません。

会員は「横の道」が毎回の刷り込みによって頭にこびりついているため、「横の道は実は間違いで存在しません」といっても聞き入れがたいと思われます。

そのため「どれだけ活動しても横の道は進めません」という表現を使いました。


「教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社」では、「進道の資糧」は「仏道を進むためのもとで」と説明されています。

「たとひ万行諸善の法財を修し蓄ふといふとも、進道の資糧となるべからず」とは、簡潔にいえば「自力諸善は仏道を進むためのもとでにはならない」ということですから、自力諸善は往生浄土の役にはたたない、自力諸善は獲信のもとでにはならないと理解できます。

このことを、会員の理解と親鸞会で使われる図にあてはめると、信の一念は「縦の線」・信後の世界は「縦の線の左側」であらわされるので、どれだけ自力諸善をしても縦の線は突破できない、縦の線には近づけない、横の道を進めないとなります。



以上を踏まえて、前の記事で「一歩も横の道は進めない」と書いたのは、親鸞会で教えを聞いたことのある人に合わせて、親鸞会で勧められている活動をどれだけしても、

 「(あなたが思っているような)横の道を進むということはありませんよ」
=「(あなたが思っているような)信仰が進むということはありませんよ」

という意味で書いたものとご理解下さい。



なお、このことについて、前の記事で引用した『親鸞会教義の誤り』宿善とは2では、『口伝鈔』のお言葉を引用した後で、

「親鸞会に当て填めれば、どれだけ法施、財施をしようとも、宿善として蓄えられて、獲信のもといとならないのです。」

と書かれています。

「進道」の「道」=「横の道」と、誤解を与えやすい表現であったことをここでお詫びし、補足させて頂きます。





以下は私の味わいです☆

どうも親鸞会、また他の団体でも、「進む」とか「求道」という言葉を使います。しかし、全て阿弥陀仏に計らわれての事ですから、我々からしたら進むも進まないもありません。

しかし、自分の修めた善根をあて力にして往生の役に立てようとする自力の心がある間は、自力諸善は間に合わないと聞きながらも、それらを「やれば何とか阿弥陀仏は助けて下さるだろう」「やればやらないよりは早く助けて下さるだろう」「やらないよりはやった方がいいだろう」と「進道の資糧」にしようとします。

私自身、聴聞にせよ、お勤めにせよ、善にせよ、自力ある間はやれば自分が救いに向かって進むように思っておりました。

それで覚如上人は、「進道の資糧となるべからず」という言い方をされたのではないかと味わっております。

それが阿弥陀仏に救い摂られてよりは、自力諸善も自力念仏も、何一つとして往生の役には立たないものであり、「ただ念仏のみぞまこと」であると知らされました。

「進道の資糧となるべからず」のお言葉の通り、私の考えは間違っておりました。

全て阿弥陀仏の御手回しで、本願招喚の勅命に呼び覚まされ、真実なる誓願を疑いなく受け入れ念仏する衆生に育て上げて頂きました。

しかし救いの前後で教学力、文章力、説法力、人格等が変化するわけではありませんから、未熟者であることには変わりありません。

ぺんぺん草さん始め皆さんの御指摘を受け止め、それを縁に勉強して、御宗義の理解を深めていきたいと思います。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード