「短命の根機」「いのち一刹那につづまる無常迅速の機」とは誰の事だと思っていますか?

地震が起きてより、ますます事態が深刻化しています。

犠牲者は「万人単位」=東日本大震災で宮城県警-M7余震確率、3日以内で70% 時事通信 3月13日(日)15時33分配信

によると、気象庁はマグニチュード(M)をこれまでの8.8から9.0に修正、確定したと発表しています。国内観測史上最大で、世界では4番目の規模とのことです。何とも凄まじい地震が起こってしまったものです。しかも、今後M7以上の余震が発生する確率については13日午前10時からの3日間以内で70%、その後3日間以内で50%ということですから、未だ直撃を受けていない地域といえども油断できません。被災地の方々には心よりお見舞い申し上げるとともに、今後の余震、津波等に十分注意いたしましょう。


今回の地震で、「平生と臨終は紙一重」であると実感した人も多いでしょう。「呼吸の頃、すなはちこれ来生なり(行文類)」のお言葉通り、わずか一呼吸ほどの間にすぐ来世となります。このような私達のことを覚如上人は「短命の根機」「いのち一刹那につづまる無常迅速の機」と仰っています。覚如上人はそのような私達に、19願の善をやらねば18願の世界に出られないというような、親鸞会流三願転入の教えを説かれているでしょうか? 少し長いですが、上のお言葉が出ている一節を取り上げてみたいと思います。

一 一念にてたりぬとしりて、多念をはげむべしといふ事。

 このこと、多念も一念もともに本願の文なり。いはゆる、「上尽一形下至一念」(礼讃・意)と等釈せらる、これその文なり。しかれども、「下至一念」は本願をたもつ往生決定の時剋なり、「上尽一形」は往生即得のうへの仏恩報謝のつとめなり。そのこころ、経釈顕然なるを、一念も多念もともに往生のための正因たるやうにこころえみだす条、すこぶる経釈に違せるものか。さればいくたびも先達よりうけたまはり伝へしがごとくに、他力の信をば一念に即得往生ととりさだめて、そのときいのちをはらざらん機は、いのちあらんほどは念仏すべし。これすなはち「上尽一形」の釈にかなへり。

 しかるに世の人つねにおもへらく、上尽一形の多念も宗の本意とおもひて、それにかなはざらん機のすてがてらの一念とこころうるか。これすでに弥陀の本願に違し、釈尊の言説にそむけり。そのゆゑは如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。 そのゆゑは願(第十八願)成就の文(大経・下)には、「聞其名号 信心歓喜 乃至一念 願生彼国 即得往生 住不退転」と説き、おなじき『経』の流通(同・下)には、「其有得聞 彼仏名号 歓喜踊躍 乃至一念 当知此人 為得大利 即是具足 無上功徳」とも、弥勒に付属したまへり。しかのみならず、光明寺(善導)の御釈(礼讃)には、「爾時聞一念皆当得生彼」と等みえたり。これらの文証みな無常の根機を本とするゆゑに、一念をもつて往生治定の時剋と定めて、いのちのぶれば、自然と多念におよぶ道理を明かせり。されば平生のとき、一念往生治定のうへの仏恩報謝の多念の称名とならふところ、文証・道理顕然なり。

 もし多念をもつて本願としたまはば、多念のきはまり、いづれのときと定むべきぞや。いのちをはるときなるべくんば、凡夫に死の縁まちまちなり。火に焼けても死し、水にながれても死し、乃至、刀剣にあたりても死し、ねぶりのうちにも死せん。これみな先業の所感、さらにのがるべからず。しかるに、もしかかる業ありてをはらん機、多念のをはりぞと期するところ、たぢろかずして、そのときかさねて十念を成じ来迎引接にあづからんこと、機として、たとひかねてあらますといふとも、願としてかならず迎接あらんことおほきに不定なり。

 されば第十九の願文にも、「現其人前者」(大経・上)のうへに「仮令不与」と等おかれたり。「仮令」の二字をばたとひとよむべきなり。たとひといふは、あらましなり。非本願たる諸行を修して往生を係求する行人をも、仏の大慈大悲御覧じはなたずして、修諸功徳のなかの称名を、よ〔り〕どころとして現じつべくは、その人のまへに現ぜんとなり。不定のあひだ、「仮令」の二字をおかる。もしさもありぬべくはといへるこころなり。まづ不定の失のなかに、大段自力のくはだて、本願にそむき仏智に違すべし。自力のくはだてといふは、われとはからふところをきらふなり。つぎにはまた、さきにいふところのあまたの業因身にそなへんこと、かたかるべからず。他力の仏智をこそ「諸邪業繋無能碍者」(定善義)とみえたれば、さまたぐるものもなけれ。われとはからふ往生をば、凡夫自力の迷心なれば、過去の業因身にそなへたらば、あに自力の往生を障碍せざらんや。

 されば多念の功をもつて、臨終を期し来迎をたのむ自力往生のくはだてには、かやうの不可の難どもおほきなり。されば紀典(白氏文集)のことばにも、「千里は足の下よりおこり、高山は微塵にはじまる」といへり。一念は多念のはじめたり、多念は一念のつもりたり。ともにもつてあひはなれずといへども、おもてとしうらとなるところを、人みなまぎらかすものか。いまのこころは、一念無上の仏智をもつて凡夫往生の極促とし、一形憶念の名願をもつて仏恩報尽の経営とすべしと伝ふるものなり。(口伝鈔)


まず、この一節は「諸善」ではなく「念仏」について教えられています。そしてこの一節に限らず、覚如上人は三願転入に触れていないばかりか、獲信するために善をせよとは全く教えられておりません。
さて、文章中に「一念」「多念」という言葉が出てきます。実は法然門下の中で、法然聖人の念仏往生の真実義を誤り、一念義の立場・多念義の立場という邪義が生じました。一念義とは、一声の称名または一念の信で往生の業事は成就すると偏執して、多念の称名を嫌い否定する立場のことをいいます。多念義とは、平生に多念の称名を積むことによって、臨終に往生の業事が成弁すると偏執して、一念業成を否定する立場をいいます。それらの邪義に対し、法然聖人の教えられた専修念仏は一念・多念のいずれにも偏執しない念仏往生の義であることを親鸞聖人は明らかにされ、覚如上人もここで教えておられるのです。
いわゆる、往生が決定するのは信一念においてであり、その後の称名は仏恩報謝として命のある限り一生涯相続すべきであると教えられています。それを多念の称名により往生が決定するととらえるのは、弥陀の本願に違反し、釈尊の教えに背くものであるというのです。なぜなら、如来の大悲は「短命の根機」を本とし、もし多念の称名により往生が決定するという本願だとすると、「いのち一刹那につづまる無常迅速の機」は多念の称名を行ずる間もなく命が終わり、本願では助からないからです。ですから、真宗の肝要は一念往生であるというのです。

この度の地震では、建物の倒壊や津波によってあっという間に多くの人命が失われました。映像等で悲惨な状況を見るにつけ、つくづく私達が「短命の根機」「いのち一刹那につづまる無常迅速の機」であると知らされます。そんな私達は、善をして信仰が進んだ先に救いがあるかのように説く親鸞会の教義では助かりません。会員の皆さんは一体、「短命の根機」「いのち一刹那につづまる無常迅速の機」とは誰の事だと思っているのでしょうか?
いわば親鸞会の説く本願は「多念をもって本願」「多念往生」としているのです。いや、多念は念仏ですが、親鸞会の勧めは諸善ですから「諸善をもって本願」「諸行往生」としているという方が適切かもしれません。本願の行として勧められているのは念仏一行であって諸善ではありません。本願の行が間違っていますから、これでは助かる道理がありません。そういえば、親鸞会では先ほどの「行文類」のお言葉を出して無常を煽り、善の勧めとして利用している節がありますが、あの御文は念仏を勧められたお言葉の中に出てくるものであって諸善の勧めとして出てくるものではありません。いい加減に本願の行を誤って教え、会員を利用するのは止めて頂きたいと思います。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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