18願平生の救いに19願臨終の救いを混ぜてまことしやかに邪説を並べる親鸞会

「短命の根機」「いのち一刹那につづまる無常迅速の機」とは誰の事だと思っていますか?

にて『口伝鈔』のお言葉を紹介しました。覚如上人は、往生が決定するのは臨終ではなく平生の信一念だとし、その後命ある限りは念仏を相続して仏恩報謝すべきであると教えられています。

「他力の信をば一念に即得往生ととりさだめて、そのときいのちをはらざらん機は、いのちあらんほどは念仏すべし」
「一念をもつて往生治定の時剋と定めて、いのちのぶれば、自然と多念におよぶ道理を明かせり」
「一念無上の仏智をもつて凡夫往生の極促とし、一形憶念の名願をもつて仏恩報尽の経営とすべしと伝ふるものなり」


と、「一念にてたりぬとしりて、多念をはげむべしといふ事」の段に3回も仰っておられます。これがもし、多念の称名により往生が決定する本願となると、「短命の根機」「いのち一刹那につづまる無常迅速の機」「無常の根機」である私達はどうして本願に救われることができましょうか。ですから真宗の肝要は一念往生であるというのです。そしてその根拠として、

そのゆゑは願(第十八願)成就の文(大経・下)には、「聞其名号 信心歓喜 乃至一念 願生彼国 即得往生 住不退転」と説き、おなじき『経』の流通(同・下)には、「其有得聞 彼仏名号 歓喜踊躍 乃至一念 当知此人 為得大利 即是具足 無上功徳」とも、弥勒に付属したまへり。しかのみならず、光明寺(善導)の御釈(礼讃)には、「爾時聞一念皆当得生彼」と等みえたり。

というように『大経』の本願成就文と弥勒付属の文、さらに善導大師の『往生礼讃』のお言葉を挙げています。これらの文証はみな無常の根機である我らを本とするため、平生の信一念に往生が決定し、その後の多念の称名は仏恩報謝であるという一念発起平生業成の義、信心正因称名報恩の教えが出てくるのです。

ところで覚如上人は、「一念にてたりぬとしりて、多念をはげむべしといふ事」の段にて19願文を引いておられますが、これは勿論19願の善を修せよと教えられているのではありません。19願については、

 もし多念をもつて本願としたまはば、多念のきはまり、いづれのときと定むべきぞや。いのちをはるときなるべくんば、凡夫に死の縁まちまちなり。火に焼けても死し、水にながれても死し、乃至、刀剣にあたりても死し、ねぶりのうちにも死せん。これみな先業の所感、さらにのがるべからず。しかるに、もしかかる業ありてをはらん機、多念のをはりぞと期するところ、たぢろかずして、そのときかさねて十念を成じ来迎引接にあづからんこと、機として、たとひかねてあらますといふとも、願としてかならず迎接あらんことおほきに不定なり。

 されば第十九の願文にも、「現其人前者」(大経・上)のうへに「仮令不与」と等おかれたり。「仮令」の二字をばたとひとよむべきなり。たとひといふは、あらましなり。非本願たる諸行を修して往生を係求する行人をも、仏の大慈大悲御覧じはなたずして、修諸功徳のなかの称名を、よ〔り〕どころとして現じつべくは、その人のまへに現ぜんとなり。不定のあひだ、「仮令」の二字をおかる。もしさもありぬべくはといへるこころなり。まづ不定の失のなかに、大段自力のくはだて、本願にそむき仏智に違すべし。自力のくはだてといふは、われとはからふところをきらふなり。つぎにはまた、さきにいふところのあまたの業因身にそなへんこと、かたかるべからず。他力の仏智をこそ「諸邪業繋無能碍者」(定善義)とみえたれば、さまたぐるものもなけれ。われとはからふ往生をば、凡夫自力の迷心なれば、過去の業因身にそなへたらば、あに自力の往生を障碍せざらんや。


という流れで引かれています。もし多念の称名により往生が決定するという本願であるとすると、いつ往生が決定するのかという問題があります。死の縁は人によって様々であり、それは過去世の業因によるのであって、逃れることはできません。また、その人が臨終にたじろかず、阿弥陀仏の来迎を願いかさねて十念しても、往生はまったく不定であるとも言われています。ですから、19願文にも「現其人前者」の上に「仮令不与」とおかれているのです。ここでは19願の行者のことを「非本願たる諸行を修して往生を係求する行人」と仰り、その人は臨終の来迎が不定のために「仮令」の二字がおかれているというのです。そして「まづ不定の失のなかに、大段自力のくはだて、本願にそむき仏智に違すべし」とあり、往生が不定であるのは本願にそむいて仏智に違反する自力の計らいがあるからだと、仏智を計らう自力を厳しく誡めておられます。

このように非本願たる諸行を修して臨終の来迎を願うのが19願です。ですから、「短命の根機」「いのち一刹那につづまる無常迅速の機」「無常の根機」である私達を本とした本願ではありません。18願の救いを求めて19願の善をせよと教えられているのかどうか、文証を見れば明らかですね。親鸞会はこのような文証は全て無視し、自分達の都合のよい根拠だけを都合よく解釈して珍しい教えを弘めているのです。
19願の善につとめても、臨終まで往生は不定です。そして臨終になっても「仮令」とありますから、来迎にあずかれるのかもまた不定です。平生の信一念にて往生が定まり、臨終を待つことなし、来迎をたのむことなしという18願とは全く別ですから、18願による往生を願うならば19願は速やかに離れなければなりません。これは勿論19願の善をやって信仰とやらが進んでから離れるのではなく、今すぐに離れるのです。
親鸞会は、平生業成、現生不退、不体失往生とは言いますが、実態は19願の勧めのために平生に対して臨終の来迎、体失往生の教えとなってしまっています。もはや平生業成とは看板のみで、中身は平生業成ではなく臨終業成です。その結果、会員は一念の救いを求めて臨終まで往生が定まらず、「臨終までに救われたらラッキーだ」「現生の求道が遠生の結縁にでもなればいい」と内心考え、今生只今の救いを放棄して活動している人も少なくないと思います。もしかしたら「真面目に求道していれば臨終に観音菩薩の説法に遇える」という高森会長の言葉を明かりに活動しているのかも知れません。では、この度のような地震や津波により命尽きるような状況下で、観音菩薩の臨終説法とやらを聞けるのでしょうか? 18願平生の救いに19願臨終の救いを混ぜてまことしやかに邪説を並べる親鸞会のおかしさに、会員の皆さんは早く気付いて抜け出して頂きたいと思います。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード