蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(6)

東日本大震災による死者数が阪神大震災の死者数を超え、戦後最大の震災となりました。今もなお行方不明者が多数おられ、被災地以外でも続く余震に不安な日々が続いています。福島原発も気がかりです。株価や為替にも影響が現れています。東京ではガソリンスタンドに長蛇の列ができ、米やパン、カップ麺、防災グッズ等は連日品切れ品薄状態です。計画停電も行われ、闇夜に懐中電灯で夕食という方もいるでしょう。列車も本数を減らしての運行で、電車で通学・通勤する方は大変だと思います。それでも被災地で食糧も十分でない、風呂にも中々入れない、プライベートもない生活をしている方々に比べたらどれだけ恵まれているか知れませんが、いつまでこのような状態が続くのかと不安です。
しかしこのような混乱でも生じないと、ぶつぶつ文句を言いながらも過ごしていた日常が如何に恵まれていたかということは中々分からないものですね。同じように、五道・六道という悪趣に赴いてからでないと人は人間界が如何に恵まれていたかということが分からないのかも知れません。ただそれでは後の祭りですから、今こそ世の無常を見つめ、常住の極楽を願い、阿弥陀仏の本願を聞かれる方が一人でも現れてくれたらと思います。


本日も、蓮如上人の『御文章』を通して親鸞会流「三願転入の教え」などないことを見ていきます。

当流の安心のおもむきをくはしくしらんとおもはんひとは、あながちに智慧・才学もいらず、男女・貴賤もいらず、ただわが身は罪ふかきあさましきものなりとおもひとりて、かかる機までもたすけたまへるほとけは阿弥陀如来ばかりなりとしりて、なにのやうもなく、ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして、後生をたすけたまへとたのみまうせば、この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、その御身より八万四千のおほきなる光明を放ちて、その光明のなかにそのひとを摂め入れておきたまふべし。

さればこのこころを『経』(観経)には、まさに「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」とは説かれたりとこころうべし。さてはわが身のほとけにならんずることは、なにのわづらひもなし。あら、殊勝の超世の本願や、ありがたの弥陀如来の光明や。この光明の縁にあひたてまつらずは、無始よりこのかたの無明業障のおそろしき病のなほるといふことは、さらにもつてあるべからざるものなり。

しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて他力の信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御方よりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。かるがゆゑに、行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。これによりて、かたじけなくもひとたび他力の信心をえたらん人は、みな弥陀如来の御恩のありがたきほどをよくよくおもひはかりて、仏恩報謝のためには、つねに称名念仏を申したてまつるべきものなり。(御文章2帖目13通)


2帖目13通の最初は、当流念仏者のふるまいについてのことですので省略しています。
「あながちに智慧・才学もいらず、男女・貴賤もいらず」ですから、弥陀の救いに一切の差別はないということです。
当流安心(他力信心)を機(ただわが身は罪ふかきあさましきものなりとおもひとりて)と法(かかる機までもたすけたまへるほとけは阿弥陀如来ばかりなりとしりて)の二種に開いて顕されています。
「なにのやうもなく」なので、衆生の側からは造作を要しない、弥陀の独用ということです。
「ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして、後生をたすけたまへとたのみまうせば」阿弥陀仏はその人をお救い下さるということですが、こちらで「どうか助けて下さい」とお願いするのではありません。こちらの「助かりたい」の思いに先行している、如来の「必ず助ける」「我にまかせよ」の親心を計らいなく聞いて、「それでは仰せの通りお助けましませ」と如来に後生、往生をおまかせ致すのです。
すると、『この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、その御身より八万四千のおほきなる光明を放ちて、その光明のなかにそのひとを摂め入れておきたまふべし。さればこのこころを『経』(観経)には、まさに「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」とは説かれたりとこころうべし』と仰っているように、阿弥陀仏は深く喜ばれて念仏の行者を光明の中に摂め取り、決してお捨てになりません。
衆生の造作は要せず、まったく弥陀の独用により往生成仏が定まるのですから、何と有難くかたじけない、殊勝な弥陀如来の本願でしょうか。この本願によらずしては、我らが往生成仏するすべはありません。
これが当流の安心(他力の信心)です。信心を獲たといっても、私の苦労や努力によって獲たのではなく、如来より授けられたのです。行者がおこす信心ではなく、弥陀如来他力の信心なのです。また信心を獲るというと何か自分の心に確固とした信念のようなものができるように思いがちですが、そうではありません。如来の勅命を計らいなく聞き受けているのが信心であり、私の側に確固としたものはありません。我が往生の証拠は南無阿弥陀仏にあると知って、往生をひとえに弥陀におまかせし、後生をくつろがせて頂いた姿が信心です。

2帖目13通にも獲信のための善の勧めはありません。当流の安心のおもむきに善は無関係だからです。ところが親鸞会は善と救いを関係づけて会員に善もどきの善を勧め、会員の獲信の妨げをしているのです。根拠は前後の文脈を無視して断章したものばかりで、こうした当流の安心のおもむきは話されません。例えばこの御文章では親鸞会が善の勧めに利用している「宿善」という言葉が出てきますが、薄い宿善を修善によって厚くせよという意味ではないことは前後を読めばすぐに分かることです。これでは当流でもなく、かといって他流でもなく、単なる新興宗教ということがお分かり頂けると思います。
親鸞会の会員は「それは信の一念のことであってそこまでに通らねばならない道程がある」と思い込まされているため、御文章を素直に読めないかもしれません。では、蓮如上人は「通らねばならない道程」とやらをどこかに教えられているでしょうか? 拝読すれば分かるように、信一念の話、南無阿弥陀仏の話、18願の話ばかりで、どこにも教えられていないのです。教えられていないということは、信一念までに「通らねばならない道程」とやらは存在しないということです。その、本来存在しないはずの「通らねばならない道程」を教える高森会長には、会員の獲信とは別に目的があることを、会員の皆さんはよく知らねばなりません。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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