蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(7)

「蓮如上人と三願転入にどのような関係が??」のシリーズも今回で7回目です。当ブログ読者の皆様は、もはや親鸞会流「三願転入の教え」などないことは十分にお分かりであり、いい加減にくどいかと思います。ところが、高森先生信心の強固な会員はそれでも親鸞会教義に固執し、本来の意味とは異なって断章されたわずかな根拠をもって「それでも高森先生の仰ることに間違いはない」と信じているのです。元々「高森先生のみが正しい。他は皆間違いだ」という観点でしか物事を判断できなくなっていますので、親鸞会と異なる解釈は始めから間違いと決めつけて読むか、あるいは講師・先輩に質問して親鸞会流の解釈を重ねて叩きこまれ、それを素直に信じてしまうのです。まさにマインドコントロールのなせる業です。
そこで当ブログでは、現在は『御文章』を通して当流の安心のおもむきとはどういうことか、他力の信心を獲るために諸善の勧めがなされているのかを検証しています。今回は2帖目14通を通して見ていきます。

 それ、越前の国にひろまるところの秘事法門といへることは、さらに仏法にてはなし、あさましき外道の法なり。これを信ずるものはながく無間地獄に沈むべき業にて、いたづらごとなり。この秘事をなほも執心して肝要とおもひて、ひとをへつらひたらさんものには、あひかまへてあひかまへて随逐すべからず。いそぎその秘事をいはん人の手をはなれて、はやくさづくるところの秘事をありのままに懺悔して、ひとにかたりあらはすべきものなり。

そもそも、当流勧化のおもむきをくはしくしりて極楽に往生せんとおもはんひとは、まづ他力の信心といふことを存知すべきなり。それ他力の信心といふはなにの要ぞといへば、かかるあさましきわれらごときの凡夫の身が、たやすく浄土へまゐるべき用意なり。その他力の信心のすがたといふはいかなることぞといへば、なにのやうもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、かならず弥陀如来の摂取の光明を放ちてその身の娑婆にあらんほどは、この光明のなかにをさめおきましますなり。これすなはちわれらが往生の定まりたるすがたなり。

されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。さればわれらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし。あら、殊勝の弥陀如来の他力の本願や。このありがたさの弥陀の御恩をばいかがして報じたてまつるべきぞなれば、ただねてもおきても、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ととなへて、かの弥陀如来の仏恩を報ずべきなり。されば南無阿弥陀仏ととなふるこころはいかんぞなれば、阿弥陀如来の御たすけありつることのありがたさたふとさよとおもひて、それをよろこびまうすこころなりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章2帖目14通)


まずはじめは秘事法門について仰っています。釈尊も親鸞聖人も蓮如上人も、六道輪廻して迷界をさまよい続けると教えられ、地獄にしても「こういう人は地獄へ堕ちる」と教えられているところがほどんどです。2帖目14通でもそうです。対して親鸞会の主張する「一切衆生必堕無間」説の明確な根拠となりえるのは

この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。(御文章2帖目2通)

の一文のみです。『御文章』は一部の人にあてられたお手紙ですから、親鸞会の主張通りならもっと多くのお手紙にこのような文章がなければ辻褄が合いません。また、

「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」といふは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。これすなはち、専雑二修の浅深を判じたまへるこころなり。『和讃』(高僧和讃・九三)にいはく、「報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる 化土に生るる衆生をば すくなからずとをしへたり」といへるはこのこころなりとしるべし。(正信偈大意)

とあることとも辻褄が合いません。今は「一切衆生必堕無間」説についてはこれ位にしておきますが、こういうことからも親鸞会教義はおかしいと分かって頂きたいものです。

次に当流勧化のおもむきが教えられています。極楽に往生しようとする人は、まず他力の信心ということをよく知らねばなりません。他力の信心とはどういうことかと言えば、私達のようなあさましい凡夫がたやすく浄土へ参らせて頂く用意であるということです。では他力の信心のすがたというのはどういうことかと言えば、

なにのやうもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、かならず弥陀如来の摂取の光明を放ちてその身の娑婆にあらんほどは、この光明のなかにをさめおきましますなり。

です。ただひとすじに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつるのみであって、衆生の造作は要しません。一心一向とは余仏をたのまないことだけでなく、諸行・諸善にこころをとどめないことです。このことは既に蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(4)にて述べました。

そして、南無阿弥陀仏というのは私達が他力の信心を獲たすがたであり、他力の信心とは南無阿弥陀仏のいわれをあらわしていると教えられています。信心といっても南無阿弥陀仏の他にはないということです。最後に称名報恩の義を述べられて2帖目14通は終わっていますが、どこにも他力の信心を獲るために諸善を勧められてはいませんね。また、他力の信心を獲るために「通らねばならない道程」とやらも教えられてはいません。
『御文章』にはいずれもいずれもこうした他力信心のおもむき、南無阿弥陀仏のすがた、すなわち18願のみが教え勧められているのであって、19願や定散二善の勧めはありません。親鸞会が殊更強調する三願転入については触れてもおられません。もし親鸞聖人が19願や定散二善を勧めておられるなら、なぜ蓮如上人は聖人のなされたように教えられていないのでしょうか? 何事も何事も開山聖人のされたようにするのがよいと教えられた蓮如上人であるのに、おかしいと思いませんか? 親鸞会は、平生業成の教え(18願)に臨終来迎の教え(19願)を引き入れています。なのでこうした善知識方の教えとは合致しませんし、救われる人が皆無といっていいのはそのためです。
他力の信心を獲るために善は不要です。もしそんなにも善をしたいのであれば、今なら親鸞会に財施する分を全額日本赤十字社等を通じて東日本大震災の義援金として寄付したり、ボランティアとして活動した方がよほど素晴らしい善になると思います。親鸞会に財施しても、一族はじめ一部の幹部を潤すだけで何の利益もありません。法施だと言って活動したり偽装勧誘をしたりしても、このように教えが間違っていますから同じく何の利益もありません。教義は秘事法門と同様の「あさましき外道の法」ですから、会員の皆さんには蓮如上人のお言葉を借りて以下のように申し上げます。

この高森教義をなほも執心して肝要とおもひて、ひとをへつらひたらさんものには、あひかまへてあひかまへて随逐すべからず。いそぎその高森教義をいはん人の手をはなれて、はやくさづくるところの高森教義をありのままに懺悔して、ひとにかたりあらはすべきものなり。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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