蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(8)

本日は2帖目15通を見ていきます。

 そもそも、日本において浄土宗の家々をたてて西山・鎮西・九品・長楽寺とて、そのほかあまたにわかれたり。これすなはち法然聖人のすすめたまふところの義は一途なりといへども、あるいは聖道門にてありし人々の、聖人(源空)へまゐりて浄土の法門を聴聞したまふに、うつくしくその理耳にとどまらざるによりて、わが本宗のこころをいまだすてやらずして、かへりてそれを浄土宗にひきいれんとせしによりて、その不同これあり。

しかりといへども、あながちにこれを誹謗することあるべからず。肝要はただわが一宗の安心をよくたくはへて、自身も決定し人をも勧化すべきばかりなり。それ当流の安心のすがたはいかんぞなれば、まづわが身は十悪・五逆、五障・三従のいたづらものなりとふかくおもひつめて、そのうへにおもふべきやうは、かかるあさましき機を本とたすけたまへる弥陀如来の不思議の本願力なりとふかく信じたてまつりて、すこしも疑心なければ、かならず弥陀は摂取したまふべし。このこころこそ、すなはち他力真実の信心をえたるすがたとはいふべきなり。

かくのごときの信心を、一念とらんずることはさらになにのやうもいらず。あら、こころえやすの他力の信心や、あら、行じやすの名号や。しかればこの信心をとるといふも別のことにはあらず、南無阿弥陀仏の六つの字をこころえわけたるが、すなはち他力信心の体なり。また南無阿弥陀仏といふはいかなるこころぞといへば、「南無」といふ二字は、すなはち極楽へ往生せんとねがひて弥陀をふかくたのみたてまつるこころなり。さて「阿弥陀仏」といふは、かくのごとくたのみたてまつる衆生をあはれみましまして、無始曠劫よりこのかたのおそろしき罪とがの身なれども、弥陀如来の光明の縁にあふによりて、ことごとく無明業障のふかき罪とがたちまちに消滅するによりて、すでに正定聚の数に住す。

かるがゆゑに凡身をすてて仏身を証するといへるこころを、すなはち阿弥陀如来とは申すなり。されば「阿弥陀」といふ三字をば、をさめ・たすけ・すくふとよめるいはれあるがゆゑなり。かやうに信心決定してのうへには、ただ弥陀如来の仏恩のかたじけなきことをつねにおもひて称名念仏を申さば、それこそまことに弥陀如来の仏恩を報じたてまつることわりにかなふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章2帖目15通)


日本において、浄土宗が西山流、鎮西流、九品寺流、長楽寺流など様々に分派しています。これは、法然聖人の勧められたことは一つでも、昔は聖道門であったが聖人へ参って教えを聞かれた方々に正しく理解されることはなく、またそれまで学んできた聖道門の教えを未だ捨て去ることができず、そればかりかその教えを浄土宗に引き入れようとしたので、各派に分かれてそれぞれ教えが異なるという現象が起きているのです。
聖道門の教えは、ごく簡単に言えば、善悪因果の道理に基づき厳しい修行(廃悪修善)によって自力でさとりを開くというものです。対して浄土門の教えは本願力を回向されて往生成仏するというもので、自力は捨てものです。聖道門の理論とはまるで違います。今までさとりの完成のために久しく自力の修行に打ち込んできた方々が、それら自力修行は本願の行にあらざる雑行であるから捨てよ、そして阿弥陀仏が本願の行として選び択られた念仏一行を専らにせよと教えられても、簡単に「はいそうですか」と今までの教えを捨て去ることはできないでしょう。なぜなら聖道門の人にとって浄土門の教えを受け入れることは、今まで長い間かけて取り組んできた修行、信じてきた教え、費やしてきた人生を否定することになるからです。そのため、従来の聖道門の頭で浄土門の教えを理解しようとして、あるいは諸行による往生を説いたり、あるいは多念の称名によって臨終に往生が定まると説いたりと、それぞれが今までの教えを浄土宗に持ちこんだ結果このような不同が生じているのでしょう。

このように今までの教えを捨て去ることができないという点では、親鸞会の会員も同じです。教義では定散二善等の雑行を勧めて真宗とは逸脱し、結果として自分も周囲も、また何十年と求めている人でさえ救われていないという明らかな現実があるのに、なおも親鸞会にしがみつく理由の一つは、今まで長い間かけて取り組んできた活動、信じてきた教え、費やしてきた人生を否定されたくないからです。そして救われない現実に対して、

「家一軒建てるのでも大変。3000万円、5000万円とかかる。まして私が求めているのは後生の一大事の解決。無間地獄に堕在して八万劫中大苦悩を免れるだけではなく、この世は弥勒菩薩と肩を並べる正定聚不退転となり、そして一息切れたら弥陀の浄土へ往生し、無上の妙果が得られるのだ。家はマッチ一本で焼けてしまうものだが、今求めているのは焼けもせず、流されも、盗まれもしない、永久に変わらぬ無上の幸福である。そんな簡単に、一朝一夕に解決のできる問題ではない。だが、たゆまず屈せずあきらめずひたすらに求めていけば必ず道は開ける。高森先生は真実を説き切っている。聞き切らないのは私の求道姿勢が甘いからだ。たとえどれだけかかろうと、解決つくまで求めぬかなければ」

などと自らを慰めて、より活動に懸命に取り組んでいくのです。親鸞会は聖道門とも異なりますが、こうした考えはまさに善悪因果の道理で弥陀の救いをとらえている聖道門的思考です。これではどれだけ懸命に聞き求めても、「引く」と書いてあるドアを懸命に押しているようなもので、いつまでも自力に留まり続けます。
あるいは自分にはとても解決ができないと落胆するものの、必堕無間の呪縛により親鸞会を離れることもできずに幽霊会員として留まる人もあるでしょう。絶対の幸福になれると甘い誘惑に乗って聞いてみたら必堕無間の恐怖を叩きこまれる。求道を断念した人も、懸命に活動を続けている人も共に救われない。費やしたものは多く、いたずらに時間ばかりが過ぎ去って刻一刻と無常は近づいている。これでは絶対の不幸としか言いようがありません。

さて、話を『御文章』に戻します。蓮如上人は「それら浄土宗の各宗を誹謗してはならない、大事なことはわが一流の安心をよく聞いて、自身も信心決定し人にも教え勧めなさい」と教えられ、わが一流の安心とはどういうことかを懇ろに説かれます。

それ当流の安心のすがたはいかんぞなれば、まづわが身は十悪・五逆、五障・三従のいたづらものなりとふかくおもひつめて、そのうへにおもふべきやうは、かかるあさましき機を本とたすけたまへる弥陀如来の不思議の本願力なりとふかく信じたてまつりて、すこしも疑心なければ、かならず弥陀は摂取したまふべし。このこころこそ、すなはち他力真実の信心をえたるすがたとはいふべきなり。

我が身は罪悪にまみれ、いずれの行にても生死を離れることができない者であると自力を離れ、そのような私を目当てに必ずお救い下さるという阿弥陀仏の本願を疑いなく聞き受け、他力に全託したのが弥陀に摂取されたすがたです。それを他力真実の信心をえたるすがたとも言うのです。
私の側からは何かをしなければならないという条件はなく、ひとえに本願力によるお救いですから、

かくのごときの信心を、一念とらんずることはさらになにのやうもいらず。あら、こころえやすの他力の信心や、あら、行じやすの名号や。

と仰っています。信心をとるということは別段難しいことではないのです。しかし、この弥陀の救いを聖道門の理論、すなわち善悪因果の道理の上で考え計らっていたらこれほど難しいことはないでしょう。先ほど申し上げたように、「引く」と書いてあるドアを懸命に押しているようなものです。親鸞会の会員は因果の道理の上に本願の救いをとらえていますので、救われないのも道理ですし、信心獲得したと言っている人を「自称獲信者」「そんな程度の信心ならね」と非難しているのも頷けます。それなら高森会長も同じく「自称獲信者」であり、「そんな程度の信心ならね」と言われても仕方ないのですが、高森先生信心ですからそうは言わないのが親鸞会です。

しかればこの信心をとるといふも別のことにはあらず、南無阿弥陀仏の六つの字をこころえわけたるが、すなはち他力信心の体なり。また南無阿弥陀仏といふはいかなるこころぞといへば、「南無」といふ二字は、すなはち極楽へ往生せんとねがひて弥陀をふかくたのみたてまつるこころなり。さて「阿弥陀仏」といふは、かくのごとくたのみたてまつる衆生をあはれみましまして、無始曠劫よりこのかたのおそろしき罪とがの身なれども、弥陀如来の光明の縁にあふによりて、ことごとく無明業障のふかき罪とがたちまちに消滅するによりて、すでに正定聚の数に住す。

信心獲得とか、その信心を金剛心と言うと聞くと、自分の心に確固としたものが存在するようになると誤解する人があるかも知れません。そうではないのです。信心をとるいっても別のことではなく、南無阿弥陀仏の六字をこころえわけたのが、他力信心の体なのです。では南無阿弥陀仏とはどのようなこころかと言うと、「南無」というのは「極楽に往生しようと願え」という弥陀の勅命を疑いなく聞き受け、弥陀に往生をおまかせしたこころです。「阿弥陀仏」というのは、そのように弥陀の勅命を聞き受けた衆生を憐れんで、果てしない過去からの恐ろしい罪悪にまみれた身ではあるけれども、弥陀如来の光明の縁に遇い、流転輪廻の罪が消えて正定聚の数に入ったことをいうのです。
このように凡身をすてて仏身を証するというこころを、阿弥陀如来というのです。なので「阿弥陀」という三字を、摂め・助け・救うと言われています。ただし、信心獲得は平生の一念ですが、本当に凡身をすてて仏身を証するのは臨終一念の夕であって、この世を生きてある限りは煩悩にまみれた憐れな凡夫でしかありません。

そして、このように信心決定しての上には、弥陀如来の広大な恩徳のかたじけなさを称名念仏して報じなさいと教えられて2帖目15通は終わっています。どこにも親鸞会流「三願転入の教え」や「通らねばならない道程」とやらは教えられていませんね。聖教の上にない教えを、さも説かれているようにでっち上げ、会員の獲信を妨げ、会員を組織拡大に利用している親鸞会は、早々に「浄土真宗」「親鸞」の看板を降ろすべきです。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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