蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(9)

『御文章』を通して親鸞会教義の誤りを検証するこのシリーズも、本日から3帖目です。勿論2帖目までで取り扱っていないものもありますが、そこにも親鸞会流「三願転入の教え」や「必ず通らねばならない道程」とやらはまったく教えられておりません。本当か嘘か、ご自身で拝読してみて下さい。会員の皆さんは高森会長や講師の言葉を鵜呑みにするのではなく、自分で確かめる習慣をつけなければならないと思います。親鸞学徒と称し、蓮如上人を親鸞学徒の鑑と言うからには、親鸞聖人のお言葉、蓮如上人のお言葉がものさしであり、『なぜ生きる』『歎異抄をひらく』『本願寺なぜ答えぬ』等にある高森会長の言葉はものさしではありません。


 そもそも、当流において、その名ばかりをかけんともがらも、またもとより門徒たらん人も、安心のとほりをよくこころえずは、あひかまへて、今日よりして、他力の大信心のおもむきをねんごろに人にあひたづねて、報土往生を決定せしむべきなり。それ一流の安心をとるといふも、なにのやうもなく、ただ一すぢに阿弥陀如来をふかくたのみたてまつるばかりなり。

しかれども、この阿弥陀仏と申すは、いかやうなるほとけぞ、またいかやうなる機の衆生をすくひたまふぞといふに、三世の諸仏にすてられたるあさましきわれら凡夫女人を、われひとりすくはんといふ大願をおこしたまひて、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、それ衆生の罪においては、いかなる十悪・五逆、謗法・闡提の輩なりといふとも、すくはんと誓ひましまして、すでに諸仏の悲願にこえすぐれたまひて、その願成就して阿弥陀如来とはならせたまへるを、すなはち阿弥陀仏とは申すなり。

これによりて、この仏をばなにとたのみ、なにとこころをももちてかたすけたまふべきぞといふに、それわが身の罪のふかきことをばうちおきて、ただかの阿弥陀仏をふたごころなく一向にたのみまゐらせて、一念も疑ふ心なくは、かならずたすけたまふべし。しかるに弥陀如来には、すでに摂取と光明といふ二つのことわりをもつて、衆生をば済度したまふなり。まづこの光明に宿善の機のありて照らされぬれば、つもるところの業障の罪みな消えぬるなり。

さて摂取といふはいかなるこころぞといへば、この光明の縁にあひたてまつれば、罪障ことごとく消滅するによりて、やがて衆生をこの光明のうちにをさめおかるるによりて、摂取とは申すなり。このゆゑに、阿弥陀仏には摂取と光明との二つをもつて肝要とせらるるなりときこえたり。されば一念帰命の信心の定まるといふも、この摂取の光明にあひたてまつる時剋をさして、信心の定まるとは申すなり。

しかれば南無阿弥陀仏といへる行体は、すなはちわれらが浄土に往生すべきことわりを、この六字にあらはしたまへる御すがたなりと、いまこそよくはしられて、いよいよありがたくたふとくおぼえはんべれ。さてこの信心決定のうへには、ただ阿弥陀如来の御恩を雨山にかうぶりたることをのみよろこびおもひたてまつりて、その報謝のためには、ねてもさめても念仏を申すべきばかりなり。それこそまことに仏恩報尽のつとめなるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章3帖目1通)



一流の安心をとるといっても、私達の側から「○○しなければならない」という条件はなく、「ただ一すぢに阿弥陀如来をふかくたのみたてまつるばかり」であると仰っています。弥陀の救いに「三願転入しなければアリ一匹助からない」といった条件をつけることは、蓮如上人の教えに反します。
では阿弥陀仏とはどのような仏で、どのような者をお救い下さるかと言うと、三世の諸仏に捨てられたあさましい我ら凡夫女人を「我一人助ける」という大願をおこされて、五劫思惟、永劫の修行を経て、たとえ十悪、五逆、謗法、闡提といった重罪人であっても助けるとお誓いなされ、すでに諸仏の悲願に超え勝れた本願を成就なされた御方、それが阿弥陀仏であるというのです。
では、私達は阿弥陀仏を何とたのみ、何とこころして助けて頂くのかというと、

それわが身の罪のふかきことをばうちおきて、ただかの阿弥陀仏をふたごころなく一向にたのみまゐらせて、一念も疑ふ心なくは、かならずたすけたまふべし。

これだけです。あとは、阿弥陀仏は摂取と光明という二つの理をもって私達をお救い下さるということ、阿弥陀仏の御恩に称名念仏して報じなさいということが書かれているのみです。蓮如上人の教えは常に同じですね。
我が身の罪の深いことには心をかけずに、ただ阿弥陀仏を二心なく一向にたのみ、一念も疑う心なくば、必ず助けて下さるとのことです。弥陀を一向にたのむ身になるには19願の善をせよとか、必ず通らねばならない道程があるとか、親鸞会で教えられる珍説は一切書かれておりません。なお、この御文章中に出てくる「宿善の機」とは「本願力廻向の救い(18願)を信じられる機」というほどの意味です。「今生において宿善の薄かった者が修善によって宿善厚くなった人」という意味はさらさらありません。

私達はただかの阿弥陀仏の「必ず助けるぞ」の仰せを計らいなく聞き受け念仏するのみです。それはすなわち18願のこころ、南無阿弥陀仏のいわれを聞くことです。19願は関係ありません。必ず通らねばならない道程とやらもありません。宿善を求めよ、厚くせよという教えもありません。「あったら説かれぬ道理がない」どこかで聞いたセリフの通りです。親鸞会流「三願転入の教え」などは、秘密の法文と同様にでっち上げの教えであることを、一人でも多くの会員さんに知って頂きたいと思います。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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