蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(10)

本来は他力信心のおもむきの部分だけを抜き出せばもっと簡潔なのですが、断章主義と思われても困りますし、何より『御文章』のお言葉そのものに触れて頂きたいので、一通全てを掲載しています。今回は3帖目2通を通して、親鸞会流「三願転入の教え」や「必ず通らねばならない道程」とやらは教えられていないことを見ていきます。


 それ、諸宗のこころまちまちにして、いづれも釈迦一代の説教なれば、まことにこれ殊勝の法なり。もつとも如説にこれを修行せんひとは、成仏得道すべきことさらに疑なし。

しかるに末代このごろの衆生は、機根最劣にして如説に修行せん人まれなる時節なり。ここに弥陀如来の他力本願といふは、今の世において、かかる時の衆生をむねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」と、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して阿弥陀と成らせたまへるほとけなり。末代今の時の衆生においては、このほとけの本願にすがりて弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、成仏するといふことあるべからざるなり。

 そもそも、阿弥陀如来の他力本願をばなにとやうに信じ、またなにとやうに機をもちてかたすかるべきぞなれば、それ弥陀を信じたてまつるといふは、なにのやうもなく、他力の信心といふいはれをよくしりたらんひとは、たとへば十人は十人ながら、みなもつて極楽に往生すべし。さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。

されば、南無阿弥陀仏といふ六字の体をよくよくこころうべし。まづ「南無」といふ二字はいかなるこころぞといへば、やうもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、後生たすけたまへとふたごころなく信じまゐらするこころを、すなはち南無とは申すなり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四字はいかなるこころぞといへば、いまのごとくに弥陀を一心にたのみまゐらせて、疑のこころのなき衆生をば、かならず弥陀の御身より光明を放ちて照らしましまして、そのひかりのうちに摂めおきたまひて、さて一期のいのち尽きぬれば、かの極楽浄土へおくりたまへるこころを、すなはち阿弥陀仏とは申したてまつるなり。されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり。

さりながら、浄土一家においてさやうに沙汰するかたもあり、是非すべからず。これはわが一宗の開山(親鸞)のすすめたまへるところの一流の安心のとほりを申すばかりなり。宿縁のあらんひとは、これをききてすみやかに今度の極楽往生をとぐべし。かくのごとくこころえたらんひと、名号をとなへて、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまへる御恩を雨山にかうぶりたる、その仏恩報尽のためには、称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章3帖目2通)



釈迦一代の説教というのがいわゆる八万四千の法門であり、親鸞聖人はそれを「浄土方便の善」等と言われています。では蓮如上人は「方便の善をやりなさい」と勧められているかと言えば、

しかるに末代このごろの衆生は、機根最劣にして如説に修行せん人まれなる時節なり。ここに弥陀如来の他力本願といふは、今の世において、かかる時の衆生をむねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」と、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して阿弥陀と成らせたまへるほとけなり。末代今の時の衆生においては、このほとけの本願にすがりて弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、成仏するといふことあるべからざるなり。

とスルーして、早速弥陀如来の他力本願、すなわち18願をお説きになっています。五劫思惟、永劫の修行をして成就なされた願とは勿論18願であって19願ではありません。この御文章には19願は出てきませんから当然ですね。さて、ではどうしたら助かるのかというと、

そもそも、阿弥陀如来の他力本願をばなにとやうに信じ、またなにとやうに機をもちてかたすかるべきぞなれば、それ弥陀を信じたてまつるといふは、なにのやうもなく、他力の信心といふいはれをよくしりたらんひとは、たとへば十人は十人ながら、みなもつて極楽に往生すべし。さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。

と仰っています。他力の信心のいわれをよく知った人は、みな極楽に往生すると言われていますが、他力の信心とは「ただ南無阿弥陀仏なり」とあるように、南無阿弥陀仏の六字以外にはないのです。それでは南無阿弥陀仏というのはどのようなこころかと言うと、

されば、南無阿弥陀仏といふ六字の体をよくよくこころうべし。まづ「南無」といふ二字はいかなるこころぞといへば、やうもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、後生たすけたまへとふたごころなく信じまゐらするこころを、すなはち南無とは申すなり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四字はいかなるこころぞといへば、いまのごとくに弥陀を一心にたのみまゐらせて、疑のこころのなき衆生をば、かならず弥陀の御身より光明を放ちて照らしましまして、そのひかりのうちに摂めおきたまひて、さて一期のいのち尽きぬれば、かの極楽浄土へおくりたまへるこころを、すなはち阿弥陀仏とは申したてまつるなり。

と仰せです。まず「南無」とは定散二善等の余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、一心一向に弥陀をたのみたてまつるこころです。「後生助けるぞ」の仰せを二心なく聞き受け、「仰せの通りお助けましませ」と往生を弥陀になげたすがたです。次に「阿弥陀仏」とは、このように弥陀を一心にたのみ、疑心なき衆生を必ず光明の内に摂取して、この世の命が尽きたら浄土へ往生させるというこころです。

それ以後は、世間に沙汰するところの念仏について述べられ、称名報恩の義を教えられて終わっています。やはり親鸞会流「三願転入の教え」はありませんでした。

「私達は諸仏に捨てられた者であることを何とも思っていない。自分は諸仏に捨てられたほど罪が重い者と、後生に驚きが立たねば仏教は始まらない」
「こういう道を通って弥陀を一心にたのむ身となる」


このように罪悪を煽る説き方や、「必ず通らねばならない道程」とやらもありませんでした。蓮如上人の御文章を読むと、親鸞会教義が如何にでっち上げのまやかしであるかがよく分かります。「念仏無間」と同様に、文底秘沈の珍らしき法を聞き求めていることに、会員の皆さんは早く気付いて下さい。
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いかに蓮如上人といえど、「19願、要門、修諸功徳の願」といった言葉を一切使わずに、三願転入の教えを人々に伝えることは不可能でしょう。もし蓮如上人が三願転入を真宗の根基(?)と考え、人々に伝えようとしておられたら、これら(上記)の言葉は「雑行」並みにふんだんに使われていたでしょうね。

>広島の名無し様

仰る通りです。蓮如上人はよく、

「阿弥陀如来の他力本願をばなにとやうに信じ、またなにとやうに機をもちてかたすかるべきぞなれば」

等と仰って、18願をどのように信じて助かるのかという問いを出しておられます。もし親鸞会の言うように19願の実践が必要ならば、こうしたお言葉の後に「善をしなさい」と教えられていなければなりません。ところがそのような教えは蓮如上人にはないのです。会員だった頃、よく「親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人を貫く教えが浄土真宗だ」と聞きましたが、親鸞会教義は浄土真宗ではないことがよく分かります。もちろん親鸞聖人、覚如上人にも19願の善をやりなさいというお言葉はありませんがね。

No title

聖道仏教と浄土仏教を比較相対で説かれているにもかかわらず、
どこから19願が不要という意味をひろってくるのでしょうか。

乞食のように。

末法の人も含めて十方衆生です。
三願とも四十八願とも読める『本願』を、
イコール18願としか読めないんですね。

整合性が低い。

>アンチkkk様

では、19願が獲信に必要であり、獲信目指して19願の善をしなさいと仰った蓮如上人のお言葉を挙げてもらいましょうか? それができなければ、貴方の主張は根拠のない珍説です。根拠だけで結構ですから答えて下さい。

No title

自分の整合性の低さに気が付かないのが親鸞会です。

親鸞聖人、蓮如上人が『本願』と仰ったのは、18願のことです。常識中の常識です。
19願を『本願』と読めるなどと戯言を言っているのは、お聖教を読んだことがないからです。あるいは、読んでいても意味が全く理解できないからです。

19願がすべての人に必要と仰った根拠は、皆無です。ただ親鸞会理論で言えば、19願の「十方衆生」だけですが、善知識方を含めて、聖道門の学僧でさえも、「十方衆生」とあるからすべての人に19願が必要、と言われた方はありません。あるなら教えて下さい。

親鸞会の理屈が如何に仏教と掛け離れたものであるかが解る代表例です。

法然上人が聖道門から非難攻撃されたのは、聖道門が重視する19願をほとんど無視されたからですよ。中世仏教史も知らないのですかね。

『選択集』の

 諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。

 諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。

 また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。

も知らないのですかね。
蓮如上人は、聖道門と浄土門とを比較されて、『選択集』と同じ論理で機根最劣の我らには、18願しかないと仰っていることも解らないのですかね。

『往生要集』の「無他方便」も知らないのでしょうね。

親鸞会の人間は、あまりにも教学に疎いというか、読解力がなさ過ぎなのですよ。

>幹部会員歴数十年様

列挙なされた御文を会員は知らないか、知っていても眼をふさいでいるか、あるいは知っていて詭弁を使っている確信犯かのいずれかではないかと思います。親鸞会の会員は、高森会長が絶対の基準となっています。会長や講師の話以外は基本的に高森フィルターに弾かれて、頭に入っていかないのでしょう。
アンチkkkさん、見ていましたら私と幹部会員歴数十年さんの質問に早く答えて下さいね。繰り返しますが根拠だけで十分ですから挙げて下さい。

・19願が獲信に必要であり、獲信目指して19願の善をしなさいと仰った蓮如上人のお言葉
・19願がすべての人に必要と仰った根拠

Abcです

こんばんわ、Abcです。

今回は「三願転入」のタグを見て回って、気になったところに書き込みを行っております。 

>しかるに末代このごろの衆生は、機根最劣にして如説に修行せん人まれなる時節なり。ここに弥陀如来の他力本願といふは、今の世において、かかる時の衆生をむねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」と、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して阿弥陀と成らせたまへるほとけなり。末代今の時の衆生においては、このほとけの本願にすがりて弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、成仏するといふことあるべからざるなり。
(蓮如上人)

この文の結論は、「末代今の時の衆生においては、このほとけの本願にすがりて弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、成仏するといふことあるべからざる」 ですね。「あるべからざる」となっているところも重要です。
「ある べから ざる」ですから 「あることがない」 と読み間違えてしまうかと思いますが、 ここは強い肯定形の「あるべきである」と読みます。 ここは読み間違えると逆の意味になってしまいますので注意が必要です。
(「肯定系 + 否定系 + 否定系」で「強い肯定文」です。)

さて、文法の話はここまでとして、肝心の内容ですが「このほとけの本願にすがりて弥陀をふかくたのみたてまつり」であり、「弥陀仏の本願(18願)にすがりて、弥陀をふかくたのむ」とあります。 このことを親鸞は「恭敬の心に執持して 弥陀の名号称ずべし」 といわれています。

また「三願」のうち、「19・20願」は、「諸善は廃せんがために説き、」
「18願」は、「念仏は立せんがために説く」と『選択集』にあります。
 そのため私は、「19・20願」は「すてもの」であると常々もうしていますし、
同行の方には、「専修念仏(私のお寺の名前の由来でもあります)」、「正定之因唯信心」のことばから「信心」=「聞信」であり、「ふたごころなく、弥陀にお任せすること」であると私は伝えています。

「「18願」も「19・20願」も同じ「十方衆生」と記されているではないか」と前にどなたかが言われましたが、「18願の機」は「諸天人民蠕動之類(全ての人とごそごそと動くもの)」であり文字通り「全てのもの」でありますが、
「19・20願の機」は「諸佛國人民有作菩薩道者」であり、「作菩薩道者」すなわち「聖道のもの(殊勝な行いをするもの)」であります。したがって、「19・20願の機」には「純粋な浄土門のもの(凡愚・愚者)」は含まれていません。このことを親鸞は、『和讃』にて

念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ

18願は真宗であり、19・20願は仮門(真門)である
 それらを分けることがなかったならば 自然の浄土は到底知ることが出来ない

とも、

聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ

19・20願の方便願に 人びとは久しく留まっており
 いろいろな処に流転の身となるのだ、 18願の真実願におまかせしなさい

と親鸞はいわれているのです。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

追記

連投申し訳ございません、Abcです。

今日は「花祭り」でございますので、もう一つ『和讃』の説明をしておきます。

果遂の願によりてこそ 釈迦は善本・徳本を
 『弥陀経』にあらはして 一乗の機をすすめける (『浄土和讃』)

20願より、 釈迦は「善本・徳本」のことを
『仏説 阿弥陀経(小経)』に顕して、 18願の機をお勧めになられた

であります、こちらのリンク先にございます所には、
 「生因三願と往生、『教行信証』の関係は以下の通りです。

18願──他力念仏往生(報土往生)──『教行信証』真仏土巻
19願──自力諸行往生(化土往生)──『教行信証』化土巻
20願──自力念仏往生(化土往生)──『教行信証』化土巻

また浄土三部経と生因三願の関係については

『大無量寿経』──18願意-他力念仏往生
『観無量寿経』──顕説(方便)19願意-自力諸行往生
         └─隠彰(真実)18願意-他力念仏往生
『阿弥陀経』──顕説(方便)20願意-自力念仏往生
        └─隠彰(真実)18願意-他力念仏往生

となります。」と『小経』について説かれています。
(引用先:http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-36.html

なもあみだ なもあみだ
Abc

Re: Abc様

末代今の時の衆生においては、このほとけの本願にすがりて弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、成仏するといふことあるべからざるなり。

の「あるべからざる」は、

末代今の時の衆生は、阿弥陀仏の本願にすがって弥陀を深くたのみたてまつらなければ、成仏するということは決してありません。

という否定形ではないのでしょうか?

あるいは、前半の仮定形の否定の文章を受けてですから、

阿弥陀仏の本願にすがって弥陀を深くたのみたてまつることによってのみ、成仏することができる。

という強い肯定形だということでしょうか?


今日は花祭りでしたね。しかも日曜日ですから、Abcさんのお寺では行事や法話が催されるのでしょうか?

Abcです

こんばんわ、Abcです。

私は、「同行のひとり」として、語らうのであり壇上に立つことはあまり場慣れしておりません。今日もすこし同行たちと 信心の沙汰をさせていただきました。ありがたいことです。

さて、
>末代今の時の衆生においては、このほとけの本願にすがりて弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、成仏するといふことあるべからざるなり。の「あるべからざる」は、

1、「末代今の時の衆生は、阿弥陀仏の本願にすがって弥陀を深くたのみたてまつらなければ、成仏するということは決してありません。」

という否定形ではないのでしょうか?

あるいは、前半の仮定形の否定の文章を受けてですから、

2、阿弥陀仏の本願にすがって弥陀を深くたのみたてまつることによってのみ、成仏することができる。

という強い肯定形だということでしょうか?

私が意図していた答えは2の文ですね。ですから1の文「弥陀を深くたのみたてまつらなければ、成仏するということは決してありません。」の「否定系+否定系」で「強い肯定系」と記させていただきました。

 前に誰かが「末代今の時の衆生においては、成仏するといふことあるべからざるなり」と肝心の「弥陀をふかくたのみたてまつらずんば」の部分を抜いて「今の衆生は、必堕無間なのだ!!」といわれていたので、その返し文となっておりました。 誠に申し訳ございません。

このことがらをもちましても、「断章教義」は恐ろしいものだなと我ながら痛感いたしました。この度は、ご指摘ありがとうございます。
Abc

Re: Abc様

Abcさんの言わんとしていることがよく分かりました。必堕無間を強調するために「弥陀をふかくたのみたてまつらずんば」を抜くとは真宗の詮を抜くようなもので、後生は地獄と脅して不安を煽るカルト宗教そのものです。

会員の皆さんには、聞法不足だから救われないのではなく、救いの無い話+デタラメ創作教義を聞いてそれらに支配されているから救われないことを知って、早く浄土真宗に帰して頂きたいものです。なもあみだ、なもあみだ。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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