蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(11)

 この方河尻性光門徒の面々において、仏法の信心のこころえはいかやうなるらん。まことにもつてこころもとなし。しかりといへども、いま当流一義のこころをくはしく沙汰すべし。おのおの耳をそばだててこれをききて、このおもむきをもつて本とおもひて、今度の極楽の往生を治定すべきものなり。それ、弥陀如来の念仏往生の本願(第十八願)と申すはいかやうなることぞといふに、在家無智のものも、また十悪・五逆のやからにいたるまでも、なにのやうもなく他力の信心といふことをひとつ決定すれば、みなことごとく極楽に往生するなり。

さればその信心をとるといふは、いかやうなるむつかしきことぞといふに、なにのわづらひもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来をふたごころなくたのみたてまつりて、余へこころを散らさざらんひとは、たとへば十人あらば十人ながら、みなほとけになるべし。このこころひとつをたもたんはやすきことなり。ただ声に出して念仏ばかりをとなふるひとはおほやうなり、それは極楽には往生せず。この念仏のいはれをよくしりたる人こそほとけにはなるべけれ。なにのやうもなく、弥陀をよく信ずるこころだにもひとつに定まれば、やすく浄土へはまゐるべきなり。このほかには、わづらはしき秘事といひて、ほとけをも拝まぬものはいたづらものなりとおもふべし。これによりて阿弥陀如来の他力本願と申すは、すでに末代今の時の罪ふかき機を本としてすくひたまふがゆゑに、在家止住のわれらごときのためには相応したる他力の本願なり。あら、ありがたの弥陀如来の誓願や、あら、ありがたの釈迦如来の金言や。仰ぐべし、信ずべし。

しかれば、いふところのごとくこころえたらん人々は、これまことに当流の信心を決定したる念仏行者のすがたなるべし。さてこのうへには一期のあひだ申す念仏のこころは、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまへるところの雨山の御恩を報じたてまつらんがための念仏なりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章3帖目3通)



蓮如上人は常に「当流一義のこころ」を詳しく教えられています。それは「弥陀如来の念仏往生の本願(第十八願)」であります。もし「当流一義のこころ」が親鸞会流「三願転入の教え」であるとするなら、蓮如上人は『御文章』の至るところに定散二善や自力念仏を勧められていなければなりません。ところがそんな勧めはなく、この御文章でもそうであるように18願のみが教え勧められています。最初から最後まで18願のみだと言っても過言ではありません。
対して親鸞会ではどうでしょうか? 過去の法話では、ビデオで聞いた限りでは大体が、なぜ生きるとどう生きる、目的と手段の違い、因果の道理、真実の自己、後生の一大事などの話でした。18願の話もまがりなりにはありましたが、それでも肝心の18願のこころとなると曖昧なまま終わっていました。肝心な聞きたい部分に来ると「仏法は聴聞に極まる」と言われ、続けて聞くことが大事と教えられて終了することが多かったように記憶しています。最近は、少なくとも平成21年では18願の話はほとんどなく、終始19願の説明ばかりで、しかもそれで終わってしまうという法話がかなりありました。
その理由については『安心問答』高森会長の話に救われる法の話がほとんどないたった1つの理由に書かれていますので参照頂きたいのですが、結局「みなみな信心決定あれかし」という讃題は言葉だけなのです。言葉だけではなく、本心からそう思っているなら蓮如上人のように18願のみを終始話さねばなりません。また、「続きは次回話す」と結論を先送りするような説き方はせず、蓮如上人のように18願のこころを懇ろに説き示して終わらねばなりません。こうでなければ短命の根機、いのち一刹那につづまる無常迅速の機を相手にしているとは言えません。「次にお互い命があればお話しします」というのも口だけだというのがお分かりでしょう。本当に次がないと思っていたら、「今回真実を説き切らずしていつ説くのか」ということになるからです。参詣者の信心決定ではなく、参詣者が次に来てもらうことを目当てにしているから、結論をじらすような話になってしまうのです。

さて、蓮如上人は文字通り「真実を説き切って」おられます。聞いてみましょう。

それ、弥陀如来の念仏往生の本願(第十八願)と申すはいかやうなることぞといふに、在家無智のものも、また十悪・五逆のやからにいたるまでも、なにのやうもなく他力の信心といふことをひとつ決定すれば、みなことごとく極楽に往生するなり。さればその信心をとるといふは、いかやうなるむつかしきことぞといふに、なにのわづらひもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来をふたごころなくたのみたてまつりて、余へこころを散らさざらんひとは、たとへば十人あらば十人ながら、みなほとけになるべし。このこころひとつをたもたんはやすきことなり。ただ声に出して念仏ばかりをとなふるひとはおほやうなり、それは極楽には往生せず。この念仏のいはれをよくしりたる人こそほとけにはなるべけれ。なにのやうもなく、弥陀をよく信ずるこころだにもひとつに定まれば、やすく浄土へはまゐるべきなり。このほかには、わづらはしき秘事といひて、ほとけをも拝まぬものはいたづらものなりとおもふべし。これによりて阿弥陀如来の他力本願と申すは、すでに末代今の時の罪ふかき機を本としてすくひたまふがゆゑに、在家止住のわれらごときのためには相応したる他力の本願なり。あら、ありがたの弥陀如来の誓願や、あら、ありがたの釈迦如来の金言や。仰ぐべし、信ずべし。

「他力の信心ということを一つ決定すれば、十悪・五逆の輩に至るまでもみなことごとく極楽に往生する」と聞くと、ではその他力の信心をとるとはどれだけ難しいことでしょうか、私にその他力の信心をとることなどできるのでしょうかという疑問が当然湧いてまいります。それに対してまず、

なにのわづらひもなく

と仰って、難しいことではないんだよ、阿弥陀仏は何も難しいことを要求していないんだよと聞く者の不安を取り除いておられます。衆生の造作を要せず本願力の独用で往生させるという救いですから、難しいことではありません。易いことなのです。

じゃあ、「正信偈」や「信文類」のお言葉はどうなるんだと思う人があると思います。特に親鸞会では極難信とばかり強調されていますから、会員さんが「信心決定は難しい」と思っているのは当然です。私も、本願を信じ念仏するまでは「信心をとるといふは、いかやうなるむつかしきことぞ」と思っていました。
それについて、ここでは「信文類」のお言葉を出して説明します。親鸞会では出てきませんが、実は「信文類」のお言葉には省略されている部分があるのです。

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。(信文類)

なぜ真実の信心を獲ることが実に難しいかというと、「如来の加威力によるがゆゑなり」「博く大悲広慧の力によるがゆゑなり」と教えられています。阿弥陀仏による一方的なおはたらきによるから難しいんだということです。これは、「救われるにはどうしたら?」という衆生の計らい(自力)があるため、衆生の造作は要しないということを撥ねつけて本願力を疑っているので難しいのです。特に善悪因果の道理を強く信じている人は、浄土往生という素晴らしい結果を得るには、こちら側からは何も要しないというのはとても受け入れがたいものがあります。しかしそれでは本願を疑い、方便化土へ留まってしまいますから、親鸞聖人は次のように誡めておられます。

・罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに 方便化土にとまるなり
・仏智の不思議を疑惑して 罪福信じ善本を
 修して浄土をねがふをば 胎生といふとときたまふ
・仏智うたがふつみふかし この心おもひしるならば
 くゆるこころをむねとして 仏智の不思議をたのむべし(正像末和讃)


これだけではなく、このような仏智疑惑和讃を23首も詠まれていますが、今回は割愛させて頂きます。親鸞聖人は「仏智の不思議をたのむべし」とこそ仰れ、「罪福ふかく信じつつ善本修習するひと」になりなさいとは仰っておられません。対して高森会長は時にたのむべき仏智の不思議は全く説かずに、因果の道理を一日話して終了し、「罪福ふかく信じつつ善本修習するひと」になりなさいと勧めるような説き方をしています。この点でも親鸞会の教えは親鸞聖人と真逆です。


ただひとすぢに阿弥陀如来をふたごころなくたのみたてまつりて、余へこころを散らさざらんひとは、たとへば十人あらば十人ながら、みなほとけになるべし。このこころひとつをたもたんはやすきことなり。

定散二善等の雑行、諸仏といった「余」へこころを散らさず、ひとすじに阿弥陀如来を二心なくたのめば、みな仏になると仰せです。「南無(我をたのめ)阿弥陀仏(必ず救う)」の仰せを計らいなく聞き受けたのが、弥陀をたのむすがたです。自力の計らいはこの仰せを聞くところに捨たりますから、「どうすれば」「どうしたら」の追求は止めて直ちに本願を聞いて下さい。

このように衆生の造作は要せず、ひとえに本願力による救いですから、実に今のごときの我ら衆生に相応した他力の本願です。何と有難く、かたじけないことでしょうか、この弥陀如来の誓願、この釈迦如来の金言は。対して、高森会長の説く「三願転入の教え」は今のごときの我ら衆生には全く相応しない教えです。他力とはかけ離れ、自力とも違う、私利私欲を満たすだけの外道の教えです。このような教えを「唯一絶対にして真実の宗教」などと思いこまされている会員の皆さんは何とも哀れです。このような私達に相応しない偽の宗教は捨て去って、私達に相応したる弥陀如来の本願(18願)を直ちに信じ、念仏して頂きたいと思います。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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