蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(14)

 それ南無阿弥陀仏と申すはいかなるこころぞなれば、まづ「南無」といふ二字は、帰命と発願回向とのふたつのこころなり。また「南無」といふは願なり、「阿弥陀仏」といふは行なり。されば雑行雑善をなげすてて専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふ帰命の一念おこるとき、かたじけなくも遍照の光明を放ちて行者を摂取したまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏」の四つの字のこころなり。また発願回向のこころなり。

これによりて「南無阿弥陀仏」といふ六字は、ひとへにわれらが往生すべき他力信心のいはれをあらはしたまへる御名なりとみえたり。このゆゑに、願成就の文(大経・下)には「聞其名号信心歓喜」と説かれたり。この文のこころは、「その名号をききて信心歓喜す」といへり。「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。かるがゆゑに、「信心歓喜」といふは、すなはち信心定まりぬれば、浄土の往生は疑なくおもうてよろこぶこころなり。このゆゑに弥陀如来の五劫兆載永劫の御苦労を案ずるにも、われらをやすくたすけたまふことのありがたさ、たふとさをおもへばなかなか申すもおろかなり。

されば『和讃』(正像末和讃・五一)にいはく、「南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて 往相回向の利益には 還相回向に回入せり」といへるはこのこころなり。また『正信偈』にはすでに「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」とあれば、いよいよ行住坐臥時処諸縁をきらはず、仏恩報尽のためにただ称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章3帖目6通)



この御文には我らが往生すべき他力信心のおもむき、すなわち南無阿弥陀仏のいわれのみが書かれています。やはりどこにも三願転入の道とか、修諸功徳の善の勧めとか、善をしなければ信仰(?)が進まないといったような珍説は書かれていません。親鸞会教義はどれをとっても文底秘沈の珍説ばかりです。

ここで蓮如上人は、題に「願行具足」とあるように願行具足の六字釈を披露されています。それについて、『WikiArc』安心論題(16)六字釈義より引用します。

 まず善導大師の六字釈でありますが、これは摂論家(無著菩薩の『摂大乗論』を奉ずる一派)の人たちは、『観無量寿経』に下品下生の極悪人が十声の念仏で浄土に往生すると説かれているのは、実は次の生にすぐ往生するのではなくて、往生は別時である。すなわち遠い将来にいつかは浄土に往生できる因になるということである。なぜなれば、臨終に南無阿弥陀仏と称えたのは、「阿弥陀さま、お願いします」という程度で、単なる願いだけであって往生に必要な行がない。すなわち唯願無行だから、すぐに往生できるのではないというのであります。
 この説は、たとえば「家を建てたいと願えば家は建つ」といっても、建てたいという願いだけで、これを建てるだけの資金がなければすぐに家が建つわけはない。しかし願いをおこした以上は、いつか資金もできて家を建てることができる、というような理解であります。
 右のような説がひろまったために、当時念仏を修する人はすっかり少なくなってしまったと伝えられます。
 本願の念仏についてのこのような誤った見解を破って、仏の正意を明らかにされたのが、善導大師の六字釈であります。『玄義分』第六和会門の第五会通別時意の章に(真聖全一―四五七)、

今この『観経』の中の十声の称仏は、すなわち十願十行ありて具足す。いかんが具足する。「南無」というはすなわちこれ帰命なり(即是帰命)、またこれ発願回向の義なり(亦是発願回向之義)。「阿弥陀仏」というはすなわちこれその行なり(即是其行)。この義をもっての故に必ず往生をう(以斯義故、必得往生)。

とお示しくださいました。「南無」は帰命(機)であるが、発願回向の意味もある。「阿弥陀仏」はその行である。したがって『観経』の十声の念仏は唯願無行ではなくて、願と行とを具足しているから、次の生にはまちがいなく浄土に往生できるのである、と明らかにされたのです。
 南無に願の意味があるということはわかるとしても、阿弥陀仏が行であるというのは、どういうことでしょうか。それは念仏を称えるということが一つの行であるというだけではなくて、阿弥陀仏の願力によって往生できるのであるという意味が考えられます。『玄義分』第一序題門には(真聖全一―四四三)、

弘願というは『大経』の説のごとし。一切善悪の凡夫、生を得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせざるはなし。

と述べられています。これは仏願力によって往生せしめられるということです。『往生礼讃』の前序には(真聖全一―六五一)、

弥陀世尊、もと深長の誓願をおこして、光明名号をもって十方を摂化したもう。ただ信心をして求念せしむれば、上一形を尽くし、下十声一声に至るまで、仏願力をもって往生を得やすし。

等とも述べられています。阿弥陀仏は光明名号をもって衆生をお救いくださる。だから私どもはただこれを信じ称えるだけで―称名の数は問題ではなく―仏願力によって容易に往生させていただけるのであるという意味です。
 このように見てまいりますと、願行具足の南無阿弥陀仏となるがゆえに必ず往生を得る、と仏意を明らかにせられた善導大師のご功績がひとしお尊く味わわれます。



それから蓮如上人は、

されば雑行雑善をなげすてて専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふ帰命の一念おこるとき、かたじけなくも遍照の光明を放ちて行者を摂取したまふなり。

と仰っています。専修専念に弥陀如来をたのみたてまつるについて、定散二善等の雑行雑善は「なげすてて」とこそ教えられ、勧められてなどおりません。余仏をたのんでいたら弥陀を専修専念にたのめないのと同様、獲信と定散二善を関係づけて余善を修めていたら、弥陀を専修専念にたのめないからです。親鸞会の教えは、会員が弥陀を専修専念にたのみたてまつることを妨げていることがよくお分かりでしょう。とりやすい安心を、とりにくい安心にしてしまっているわけです。善知識方の教えとは真逆ですから、何十年と聞いている会員、熱心に活動している会員でも救われていないのは当然なのです。

また、「南無阿弥陀仏」の六字全体を指して、「ひとへにわれらが往生すべき他力信心のいはれをあらはしたまへる御名」であるとも仰っています。そして続けて、

このゆゑに、願成就の文(大経・下)には「聞其名号信心歓喜」と説かれたり。この文のこころは、「その名号をききて信心歓喜す」といへり。「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。

と教えられています。このことから、善知識とは、南無阿弥陀仏の六字のいわれを正しく説く人であることが分かります。対して「蓮如上人以来の善知識」と会員に言わせている親鸞会の高森会長は、南無阿弥陀仏の六字のいわれはそっちのけで、相伝もなき「三願転入の教え」を説いて善もどきの善ばかり会員に勧めています。このような人は善知識と言わないことが、蓮如上人のお言葉からお分かりでしょう。
蓮如上人を「親鸞学徒の鑑」だなどと言いながら、親鸞会は少しも蓮如上人の教えられたように教えを説きません。それどころか蓮如上人のお言葉を一部断章して、一切衆生必堕無間と脅し、助かるには宿善を厚くせよと説き、高森会長への無条件服従を強いている始末です。そうして会員に献金と勧誘をやらせ、利用している輩ですから、会員の皆さんの後生など少しも心配していません。会員の皆さんにはいい加減に「会長先生は学徒の皆さん一人一人の後生を案じています」などという妄想から離れて、自分も周囲も救われていない現実、そして活動に励んでも励んでも出口の見えない現実を直視して頂きたいと思います。
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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