蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(15)

親鸞会会員時代、よく次のようなことを聞きました。

親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の三方を貫く教えが浄土真宗である。三方を貫かない教えは浄土真宗ではない。例えば、親鸞聖人の書かれたものからはこうも解釈できる、こうも解釈できる、というように幾通りも解釈ができる所がある。親鸞聖人を点Aとすると、点Aを通る直線は何本でも引けるようなものだ。しかし覚如上人の書かれたものと合わせてみると、何通りもの解釈はできない。覚如上人を点Bとすると、点Aと点Bを通る直線は一本しか引けない。さらに蓮如上人を点Cとすると、なおさら三点を通る直線は一本しか引けない。

この理論からすると、覚如上人、蓮如上人は三願転入について仰っていませんから、三願転入を殊更強調するのはおかしなことです。また、お二方は18願の世界へ出る道程として19願・20願を通らねばならないとは教えられていません。そもそも親鸞会で「横の道」に該当するような「必ず通らなければならない道程」とやらは全く教えられておりません。勿論こうしたことは親鸞聖人も教えられていませんから、親鸞会教義は三方のどなたをも貫かない珍らしき法であり、浄土真宗ではありません。
蓮如上人は、末代濁世の在家無智の我らのために、「懇ろに親鸞聖人のすすめたまふところの一義のこころ」を教えられています。その一義の中に、果たして親鸞会流「三願転入の教え」が書かれているのでしょうか? 答えは見えているようなものですが、本日は3帖目7通を通して検証します。


 そもそも、親鸞聖人のすすめたまふところの一義のこころは、ひとへにこれ末代濁世の在家無智の輩において、なにのわづらひもなく、すみやかに疾く浄土に往生すべき他力信心の一途ばかりをもつて本とをしへたまへり。しかれば、それ阿弥陀如来は、すでに十悪・五逆の愚人、五障・三従の女人にいたるまで、ことごとくすくひましますといへることをば、いかなる人もよくしりはんべりぬ。

しかるにいまわれら凡夫は、阿弥陀仏をばいかやうに信じ、なにとやうにたのみまゐらせて、かの極楽世界へは往生すべきぞといふに、ただひとすぢに弥陀如来を信じたてまつりて、その余はなにごともうちすてて、一向に弥陀に帰し、一心に本願を信じて、阿弥陀如来においてふたごころなくは、かならず極楽に往生すべし。この道理をもつて、すなはち他力信心をえたるすがたとはいふなり。そもそも信心といふは、阿弥陀仏の本願のいはれをよく分別して、一心に弥陀に帰命するかたをもつて、他力の安心を決定すとは申すなり。されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、信心決定の体とす。

しかれば「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。これによりて衆生の三業と弥陀の三業と一体になるところをさして、善導和尚は「彼此三業不相捨離」(定善義)と釈したまへるも、このこころなり。

されば一念帰命の信心決定せしめたらん人は、かならずみな報土に往生すべきこと、さらにもつてその疑あるべからず。あひかまへて自力執心のわろき機のかたをばふりすてて、ただ不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心にたのまんひとは、たとへば十人は十人ながらみな真実報土の往生をとぐべし。このうへには、ひたすら弥陀如来の御恩のふかきことをのみおもひたてまつりて、つねに報謝の念仏を申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章3帖目7通)



最初に書かれているように、「親鸞聖人のすすめたまふところの一義のこころ」とは「なにのわづらひもなく、すみやかに疾く浄土に往生すべき他力信心の一途ばかり」であります。「すみやかに疾く」という言葉は親鸞聖人も使っておられますので見てみましょう。

横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。(信文類)

このことからも、親鸞聖人の一義とは二双四重の教判では横超にあたる教え、すなわち18願の教法のことです。対して19願、20願に当たる教えは、定善や散善といった自力の善を修めて方便化土へ往生する遠まわりの善の教え、すなわち横出の教えです。「なにのわづらひもなく、すみやかに疾く浄土に往生」しない教えなのです。18願の教法を聞いてすみやかに疾く浄土に往生しようとしている人に、方便化土へ往生する遠まわりの善を勧めるおかしさが、いよいよ鮮明に知らされます。

こう言うと、高森先生信心の強い会員は必ずといっていいほど次のような言い訳をします。

それは縦の線(一念)のことで、それまでは善をしなければ信仰は進まない。合点だけでは通れないんだ。方便からしか真実に入れず。方便の道程(19願、20願)を通らずしては真実(18願)へは入れないんだ。

では蓮如上人はそのようなことを教えられているのでしょうか。続きを読んでみましょう。

しかるにいまわれら凡夫は、阿弥陀仏をばいかやうに信じ、なにとやうにたのみまゐらせて、かの極楽世界へは往生すべきぞといふに、ただひとすぢに弥陀如来を信じたてまつりて、その余はなにごともうちすてて、一向に弥陀に帰し、一心に本願を信じて、阿弥陀如来においてふたごころなくは、かならず極楽に往生すべし。この道理をもつて、すなはち他力信心をえたるすがたとはいふなり。そもそも信心といふは、阿弥陀仏の本願のいはれをよく分別して、一心に弥陀に帰命するかたをもつて、他力の安心を決定すとは申すなり。されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、信心決定の体とす。

我ら凡夫は、阿弥陀仏をどのように信じ、どのようにたのみまいらせて、極楽へ往生するのかというと、ただひとずじに弥陀如来を信じたてまつるばかりです。「その余はなにごともうちすてて」ですから、阿弥陀仏に救われるのに他仏が不要なのと同様、善は不要ということです。横の道を進むために善が必要などと思ってやっていたら、一向に弥陀に帰すことはできません。一心に本願を信じることはできません。阿弥陀如来において二心なくということにはなりません。蓮如上人はどこにも会員の考えているような横の道、方便の善の必要性は説いておられません。
また、19願、20願の道程の先に信心決定という体験があるように会員は想い描いていますが、「阿弥陀仏の本願のいはれをよく分別して、一心に弥陀に帰命するかたをもつて」、「南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて」信心決定というのです。阿弥陀仏の本願とは18願であり、19願や20願のことではありません。18願のいわれ、南無阿弥陀仏のいわれをよく分別し、よく心得わけたのが信心決定であって、驚天動地の体験とは違うのです。

南無阿弥陀仏のいわれについて、3帖目7通では機法一体の六字釈をしておられます。機法一体について詳しくは、WikiArc『安心論題』(12)機法一体を参照して下さい。今は以下の部分のみ引用します。

蓮如上人のいわれる機法一体の「機」とは南無帰命の信心であり、「法」とは阿弥陀仏の摂取の願力であります。したがって、衆生の上に発起せしめられる信心と、阿弥陀仏の摂取の願力とは一つの体である、という意味を「機法一体」として明らかにせられます。つまりこれは行信不二の義であります。
 これを仏辺成就の上でいうならば、衆生を南無せしめて摂取したもうのが南無阿弥陀仏であるということになります。またこれを衆生領受の上でいうならば、私どもの南無帰命の信心は阿弥陀仏の摂取の法が届いてくだされたすがたにほかならないということであります。


信心決定というと、心がガラっと日本晴れの明るい心に変わるような体験を想像し、憧れている会員さんも少なくないと思います。ところが、信心といっても南無阿弥陀仏の他には何もなく、「我をたのめ(南無)かならず救う(阿弥陀仏)」の摂取の法を疑いなく聞き受けた以外にありません。ですから、南無阿弥陀仏のいわれを聞かないことには信心決定も何もないのです。19願、20願をいくら実践したところで摂取の法を疑いなく聞くということにはなりません。方便願の実践の先にあるものは方便化土であって、信心決定、往生成仏ではないのです。会員さんは、目的である信心決定とは別の方向へ誘導されていることをどうか知って下さい。

蓮如上人は、こう懇ろに説いてもやはり自力執心にとらわれる者があると見て、重ねてこう諭されます。

あひかまへて自力執心のわろき機のかたをばふりすてて、ただ不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心にたのまんひとは、たとへば十人は十人ながらみな真実報土の往生をとぐべし。

「三願転入の道を進まねば」
「方便を通らねば」
「要門と言われているのだから18願に入るのに実行する必要があるのだ」


などというのは、まさに不思議の願力を疑い、撥ねつけている「自力執心のわろき機のかた」です。このような教えを聞いている限り、信心決定、往生成仏とは無縁な人生となりますから速やかに離れ、南無阿弥陀仏のいわれを聞いて、今度の一大事の往生を遂げて下さい。
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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