蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(17)

 そもそも、今日は鸞聖人(親鸞)の御命日として、かならず報恩謝徳のこころざしをはこばざる人、これすくなし。しかれどもかの諸人のうへにおいて、あひこころうべきおもむきは、もし本願他力の真実信心を獲得せざらん未安心の輩は、今日にかぎりてあながちに出仕をいたし、この講中の座敷をふさぐをもつて真宗の肝要とばかりおもはん人は、いかでかわが聖人の御意にはあひかなひがたし。しかりといへども、わが在所にありて報謝のいとなみをもはこばざらんひとは、不請にも出仕をいたしてもよろしかるべきか。

されば毎月二十八日ごとにかならず出仕をいたさんとおもはん輩においては、あひかまへて、日ごろの信心のとほり決定せざらん未安心のひとも、すみやかに本願真実の他力信心をとりて、わが身の今度の報土往生を決定せしめんこそ、まことに聖人報恩謝徳の懇志にあひかなふべけれ。また自身の極楽往生の一途も治定しをはりぬべき道理なり。これすなはち、まことに「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」(礼讃)といふ釈文のこころにも符合せるものなり。

それ、聖人御入滅はすでに一百余歳を経といへども、かたじけなくも目前において真影を拝したてまつる。また徳音ははるかに無常の風にへだつといへども、まのあたり実語を相承血脈してあきらかに耳の底にのこして、一流の他力真実の信心いまにたえせざるものなり。これによりて、いまこの時節にいたりて、本願真実の信心を獲得せしむる人なくは、まことに宿善のもよほしにあづからぬ身とおもふべし。もし宿善開発の機にてもわれらなくは、むなしく今度の往生は不定なるべきこと、なげきてもなほかなしむべきはただこの一事なり。

しかるにいま本願の一道にあひがたくして、まれに無上の本願にあふことを得たり。まことによろこびのなかのよろこび、なにごとかこれにしかん。たふとむべし、信ずべし。これによりて年月日ごろわがこころのわろき迷心をひるがへして、たちまちに本願一実の他力信心にもとづかんひとは、真実に聖人の御意にあひかなふべし。これしかしながら今日、聖人の報恩謝徳の御こころざしにもあひそなはりつべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章3帖目9通)



このお手紙は文明七年五月二十八日に書かれたもので、二十八日といえば親鸞聖人の御命日です。蓮如上人は、今日に限って出仕をし、説法の講堂の座敷にいることが大事であると思っている人は、聖人の御意にかなわない。未だ信心を決定していない人も、すみやかに本願真実の他力信心を獲得して、わが身の今度の報土往生を決定することこそ、まことに聖人報恩謝徳の懇志にあいかなうことであり、また自身の極楽往生の一途も治定するのだと教えられています。
3帖目9通でも、親鸞会流「三願転入の教え」や信前の人が必ず通らねばならない道程、獲信のための(因縁としての)善の勧め、因果の道理、善知識への無条件服従、地獄の恐怖を煽る説き方などは書かれていません。ただ、注意しなくてはならない点があるのでいくつか申し上げておきます。

まずは宿善についてです。親鸞会では

宿善というのは過去世の仏縁のことであるが、過去に仏縁浅きものは現在において真剣に宿善を求めねばならない。でなければ宿善開発の時節到来ということはあり得ない。されば宿善は待つに非ず、求めるものである。(『白道燃ゆ』203頁)

などと主張し、しきりに宿善を求めよ、宿善を厚くせよと教えています。そして宿善の厚くなる方法として、聴聞、勤行、六度万行の実践などを挙げ、破邪顕正(いわゆる勧誘)は信前の人には最高の宿善だと言っています。それで、特に降誕会や報恩講といった大きな行事の前にはいつもより多くの目標参詣人数を決められ、家族や友人を誘ってくるように勧められました。それが家族や友人のためでもあり、また自分の救いにも連なってゆくと思っていたのです。これは間違いです。
宿善を求めよ、宿善を厚くせよという教えは浄土真宗にはありません。第一、親鸞聖人は「宿善」という言葉を使っておられません。蓮如上人は「宿善」という言葉は随所に使っておられますが、宿善を求めよとか、宿善を厚くせよとはどこにも教えられておりません。聴聞や勤行、財施や法施などが宿善になるからやりなさいとは教えられていないのです。
聴聞と勤行は、共に救いの法をお聞かせ頂くのであって、それが宿善になるとか、宿善になるからしなさいとは教えられていません。また、宿善が厚くなる順に聴聞、勤行、六度万行の実践という親鸞会の主張も根拠がありません。教えられているなら、親鸞会は根拠を示さねばなりません。
六度万行の実践については、弥陀の救いを求めて修する財施や法施等の自力諸行は雑行と名づけて嫌われています。会員さんは

「親鸞聖人の教えを伝えること(実態は親鸞会に多くの人を誘ってくること)が人間にできる最高の善であり、自利利他の実践である。相手を幸せにすると共に、それがそのまま自分の救いに連なってゆく」
「自力の善によって救われたり、救われる足しになったりはしないけれども、助かる縁手がかりのない自分と知らされ自力が捨たるには善をしなければならない」


と理解していることでしょう。こうした理解は、結局「救われるには善が必要」という考えで、救いと善を関係づけています。これを信罪福心といい、自力の計らいともいいます。親鸞聖人は自力の計らいを厳しく誡められていることは御存知の通りです。真宗で財施や法をお伝えすることは報謝であって、救いとは関係ありません。
このように相伝もなきえせ法門を説いているのが親鸞会です。献金や勧誘を勧め、組織拡大に利用できそうな言葉として高森会長が目をつけたのが「宿善」だったのです。その誤りが指摘され、それからは三願転入の御文と19願を利用した修善(主に献金、勧誘)の勧めがメインとなっていますが、真宗にあらざる邪義に変わりはありません。

次に、「本願の一道」ということについてです。縦と横の線により、横の道を通って縦の線にたどり着くという頭の会員には、この言葉が親鸞会流「三願転入の教え」を意味しているように思えるかもしれません。あるいは、必ず通らねばならない道程があるように思えるかもしれません。これは違います。「本願の一道」のすぐ後に「無上の本願」と書かれているように、これは18願のことです。蓮如上人は三願転入については一言も触れていませんし、獲信するためにはこのような道を通るのだということは教えられていません。縦と横の線による視覚的な思考操作によって会員はまんまと騙され、直ちに18願の教法を聞くことができないでいます。縦と横の線も高森会長のオリジナル教義であり、珍しい教えです。真宗で横の道に該当する教えはありません。親鸞会教義は何から何まで珍説ばかりです。

何も知らない素人が徐々に高森先生信心になっていき、その状態で聞くと、さも親鸞会の主張が正しいように思えます。しかし親鸞会教義の根拠は「高森会長の言葉」であって、「親鸞聖人の言葉」「蓮如上人の言葉」ではありません。さよなら親鸞会して、宗祖や蓮師のお言葉に直に触れている今は、そのことがハッキリ分かります。これ以上珍らしき法を弘め続けるならば、親鸞会は「浄土真宗」「親鸞聖人の教え」の看板をいい加減降ろして、高森会とでも名乗った方がよろしいかと思います。
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「縦の線」はともかくも、「横の線」は親鸞会の組織基盤となり生命線となっているので、親鸞会が存続する限り無くならないでしょうね。分かっちゃいるけど(?)無くせない、ってところでしょうか。

>広島の名無し様

求道と称して献金と勧誘をさせないと組織は維持できませんから、仰る通り横の道は生命線であり、無くせないでしょうね。しかし会員さんにとっては、あの図によって「横の道を進まねばならない」と思い込まされています。結果、救いは横の道を進んだ未来の事としか思えません。まさに獲信、往生の障壁です。
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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