蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(20)

 そもそも、いにしへ近年このごろのあひだに、諸国在々所々において、随分、仏法者と号して法門を讃嘆し勧化をいたす輩のなかにおいて、さらに真実にわがこころ当流の正義にもとづかずとおぼゆるなり。そのゆゑをいかんといふに、まづかの心中におもふやうは、われは仏法の根源をよく知り顔の体にて、しかもたれに相伝したる分もなくして、あるいは縁の端、障子の外にて、ただ自然とききとり法門の分斉をもつて、真実に仏法にそのこころざしはあさくして、われよりほかは仏法の次第を存知したるものなきやうにおもひはんべり。これによりて、たまたまも当流の正義をかたのごとく讃嘆せしむるひとをみては、あながちにこれを偏執す。すなはちわれひとりよく知り顔の風情は、第一に驕慢のこころにあらずや。

かくのごときの心中をもつて、諸方の門徒中を経回して聖教をよみ、あまつさへわたくしの義をもつて本寺よりのつかひと号して、人をへつらひ虚言をかまへ、ものをとるばかりなり。これらのひとをば、なにとしてよき仏法者、また聖教よみとはいふべきをや。あさまし、あさまし。なげきてもなほなげくべきはただこの一事なり。これによりて、まづ当流の義をたて、ひとを勧化せんとおもはん輩においては、その勧化の次第をよく存知すべきものなり。

 それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。

されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

このおもむきをくはしく存知して、ひとをば勧化すべし。ことにまづ王法をもつて本とし、仁義を先として、世間通途の義に順じて、当流安心をば内心にふかくたくはへて、外相に法流のすがたを他宗・他家にみえぬやうにふるまふべし。このこころをもつて当流真実の正義をよく存知せしめたるひととはなづくべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章3帖目12通)



このお手紙は親鸞会では高森会長によってねじ曲げられ、献金や勧誘を勧める材料にされてしまっています。

「無宿善の機は信心をとりがたし」
「いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり」
とあるから、信心獲得するのに如何に宿善が大事であるかが分かる。宿善というのは過去世の仏縁のことであるが、過去に仏縁浅きものは現在において真剣に宿善を求めねばならない。でなければ宿善開発の時節到来ということはあり得ない。されば宿善は待つに非ず、求めるものである。


というような調子で、会員は宿善として聴聞やおつとめ、財施(献金)、破邪顕正(勧誘)等を修せよと教えられているのです。これは甚だしい間違いです。蓮如上人は、信心獲得するために宿善を厚くせよとか、求めよとは一切教えられておりません。では、このお手紙で「宿善」という言葉を用いて、蓮如上人はどういうことを仰っているでしょうか? これから見ていきたいと思います。

これによりて、まづ当流の義をたて、ひとを勧化せんとおもはん輩においては、その勧化の次第をよく存知すべきものなり。それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。

蓮如上人は当流親鸞聖人の教えを伝えようとする人に、その心得として「宿善・無宿善の機を沙汰せよ」と仰っていることが分かります。人に教えを伝える時の心得であって、他力の信心を獲るためにどうせよと仰っているところではないのです。ではどうしてこのようなことを仰っているのか、続きを見てみます。

さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。

当流の教えは正雑二行の沙汰をします。いわゆる、往生行としては念仏一行を立て、六度万行や定散二善等の諸行諸善は雑行と名づけてこれを嫌うというものです。これは阿弥陀仏が18願において一切の諸行を選び捨て、念仏一行を選び取られたことによるからです。この18願の教えを受け入れられない人(無宿善の機)には、当流の教えを説いてもかえって誹謗するもといとなります。例えば、聖道門の人は善悪因果の道理に従い、自力諸行を修めてさとりの完成を目指しています。そのような人に、その自力諸行は阿弥陀仏が選び捨てられた雑行だから捨てよ、そして選び取られた妙行である念仏一行を専らにせよという当流の教えを説いても、とても理解しがたいでしょう。また、「どんな悪人も漏らさず救う」「救いに我々の善悪は関係ない」と聞けば、「どんな悪を造ってもよいのか」「悪にほこっていてよいのか」などと親鸞会みたいなことを言う人もあるかも知れません。このように教えを受け入れられない人もありますし、それだけではなく誹謗する人も出てきますから、誰にでもむやみやたらに当流の教えを説いてはならないということです。

されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。このおもむきをくはしく存知して、ひとをば勧化すべし。

それから経、釈のお言葉を引かれて、18願の教えを受け入れられる人、すなわち宿善の機に当流の法を与えなさいと教えられています。あくまで人に教えを説く時の心得であって、宿善を求めよとか、厚くせよという教えはどこにも見当たりません。この後は、

ことにまづ王法をもつて本とし、仁義を先として、世間通途の義に順じて、当流安心をば内心にふかくたくはへて、外相に法流のすがたを他宗・他家にみえぬやうにふるまふべし。このこころをもつて当流真実の正義をよく存知せしめたるひととはなづくべきものなり。

で終了していますから、親鸞会教義は断章主義の創作教義だということが分かります。文章の前後を読めば、如何に高森会長が一部を切り取って教義を創作し、真宗教義をねじ曲げているかということが分かりますね。

3帖目12通にも宿善を厚くせよという教義は勿論、親鸞会流「三願転入」の教え、獲信までに必ず通らねばならない道程、一切衆生必堕無間という教義、善知識に無条件服従せよという教義、獲信のために因果の道理を説いて廃悪修善を勧めるという教義はことごとく存在しません。親鸞会は相伝もなきえせ法門を説いて人を騙し、会員に献金と勧誘をやらせてものをとるばかりです。そして親鸞会の説く所が正しくそれ以外は全て間違いのように会員に吹き込んでいます。これはまさに「われひとりよく知り顔の風情」であります。

随分、仏法者と号して法門を讃嘆し勧化をいたす輩のなかにおいて、さらに真実にわがこころ当流の正義にもとづかずとおぼゆるなり。そのゆゑをいかんといふに、まづかの心中におもふやうは、われは仏法の根源をよく知り顔の体にて、しかもたれに相伝したる分もなくして、あるいは縁の端、障子の外にて、ただ自然とききとり法門の分斉をもつて、真実に仏法にそのこころざしはあさくして、われよりほかは仏法の次第を存知したるものなきやうにおもひはんべり。これによりて、たまたまも当流の正義をかたのごとく讃嘆せしむるひとをみては、あながちにこれを偏執す。すなはちわれひとりよく知り顔の風情は、第一に驕慢のこころにあらずや。かくのごときの心中をもつて、諸方の門徒中を経回して聖教をよみ、あまつさへわたくしの義をもつて本寺よりのつかひと号して、人をへつらひ虚言をかまへ、ものをとるばかりなり。これらのひとをば、なにとしてよき仏法者、また聖教よみとはいふべきをや。あさまし、あさまし。なげきてもなほなげくべきはただこの一事なり。

と蓮如上人が言っているのは、高森会長に対してではないかと私には思えてなりません。まったく真宗にあらざる教えを正しいと信じ込まされ、善と称して献金と勧誘をやらされ、聴聞と言っても善の話ばかりで聴聞になっていない現実を、会員の皆さんは今こそ受け止めるべきだと思います。
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「われよりほかは仏法の次第を存知したる者なきやうに思ひはんべり」とは高森会長のことを言われているようです。我より他に分かる者なしと思うから、親鸞会の独り勝ちでなくては気が済まないで、他派をなぎ倒して「親鸞会の独り輝く」状態を目指すのでしょう。親鸞会のみの繁盛ではなく、真宗全体の繁盛を考えてくれたら、と思います。そうなる可能性は低いにしても。

>広島の名無し様

私もそう願いますが、可能性は限りなく0に近いです。真宗の繁盛とは、たとえ一人でも信を取ることです。しかし、諸行往生を誓っている19願を根拠に善もどきの善の話ばかりして会員の獲信を阻み、多くの人を騙し、物を取るばかりですから、真宗繁盛の気持ちは全く見られません。このままではやがて親鸞会という泥船の沈没の渦に巻き込まれて、多くの会員が迷界に彷徨うのは目に見えています。本来の真宗教義と親鸞会教義の誤りとを発信し続けることが、そういう人が一人でも出なくなる方法の一つかと思っています。
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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