蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(22)

 それ、真宗念仏行者のなかにおいて、法義についてそのこころえなき次第これおほし。しかるあひだ、大概そのおもむきをあらはしをはりぬ。所詮自今以後は、同心の行者はこのことばをもつて本とすべし。これについてふたつのこころあり。

一つには、自身の往生すべき安心をまづ治定すべし。二つには、ひとを勧化せんに宿善・無宿善のふたつを分別して勧化をいたすべし。この道理を心中に決定してたもつべし。しかればわが往生の一段においては、内心にふかく一念発起の信心をたくはへて、しかも他力仏恩の称名をたしなみ、そのうへにはなほ王法を先とし、仁義を本とすべし。また諸仏・菩薩等を疎略にせず、諸法・諸宗を軽賤せず、ただ世間通途の義に順じて、外相に当流法義のすがたを他宗・他門のひとにみせざるをもつて、当流聖人(親鸞)の掟をまもる真宗念仏の行者といひつべし。

ことに当時このごろは、あながちに偏執すべき耳をそばだて、謗難のくちびるをめぐらすをもつて本とする時分たるあひだ、かたくその用捨あるべきものなり。そもそも当流にたつるところの他力の三信といふは、第十八の願に「至心信楽欲生我国」といへり。これすなはち三信とはいへども、ただ弥陀をたのむところの行者帰命の一心なり。

そのゆゑはいかんといふに、宿善開発の行者一念弥陀に帰命せんとおもふこころの一念おこるきざみ、仏の心光かの一念帰命の行者を摂取したまふ。その時節をさして至心・信楽・欲生の三信ともいひ、またこのこころを願成就の文(大経・下)には「即得往生住不退転」と説けり。あるいはこの位を、すなはち真実信心の行人とも、宿因深厚の行者とも、平生業成の人ともいふべし。されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。

しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)と仰せられたり。これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。

このゆゑに、宿善の有無の根機をあひはかりて人をば勧化すべし。しかれば近代当流の仏法者の風情は、是非の分別なく当流の義を荒涼に讃嘆せしむるあひだ、真宗の正意、このいはれによりてあひすたれたりときこえたり。かくのごときらの次第を委細に存知して、当流の一義をば讃嘆すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章4帖目1通)



このお手紙で蓮如上人は、真宗念仏行者の心得として、

(1)自身の往生すべき安心をまづ治定すべし
(2)ひとを勧化せんに宿善・無宿善のふたつを分別して勧化をいたすべし


と教えられています。まず始めに信心獲得し、往生成仏すべきであると言われています。この世はいつ何が起こるか分からない無常の世界です。今回の東日本大震災を受けて身に染みて感じた人も多いと思います。では往生の為にはどうせよと教えられているかというと、

わが往生の一段においては、内心にふかく一念発起の信心をたくはへて、しかも他力仏恩の称名をたしなみ

とあります。そして一念発起の信心とはどういうことかと言うと、

そもそも当流にたつるところの他力の三信といふは、第十八の願に「至心信楽欲生我国」といへり。これすなはち三信とはいへども、ただ弥陀をたのむところの行者帰命の一心なり。そのゆゑはいかんといふに、宿善開発の行者一念弥陀に帰命せんとおもふこころの一念おこるきざみ、仏の心光かの一念帰命の行者を摂取したまふ。その時節をさして至心・信楽・欲生の三信ともいひ、またこのこころを願成就の文(大経・下)には「即得往生住不退転」と説けり。あるいはこの位を、すなはち真実信心の行人とも、宿因深厚の行者とも、平生業成の人ともいふべし。されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)と仰せられたり。

と教えられています。一念発起の信心とは他力の三信であり、それは第18願の「至心信楽欲生我国」です。このこころを『尊号真像銘文』には、

「至心信楽」といふは、「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」といふは、他力の至心信楽のこころをもつて安楽浄土に生れんとおもへとなり。

と説かれています。至心、信楽、欲生我国はいずれも凡夫自力の心ではなく、如来回向の真実心であります。阿弥陀仏は十方の衆生に「わが真実なる誓願を信楽せよ(我をたのめ、必ず救う)」と喚びかけられています。それに対して私達は、この如来の勅命を計らいなく聞き受けるばかりです。そして、「他力の至心信楽のこころをもつて安楽浄土に生れんとおもへ」という如来の御声に絶えず呼び覚まされ、他力の称名を称えつつ安楽浄土を目指して命ある限り生きていくのであります。
ただ、至心、信楽、欲生我国の三心は、結局のところ弥陀の勅命(誓願)を計らいなく聞き受けている無疑心(信楽)の一心ですから、

これすなはち三信とはいへども、ただ弥陀をたのむところの行者帰命の一心なり。

と仰せられてあります。それはどういうことかというと、続けて

宿善開発の行者一念弥陀に帰命せんとおもふこころの一念おこるきざみ、仏の心光かの一念帰命の行者を摂取したまふ。

と仰っています。「宿善開発の行者」とは「一念帰命の行者」のことで、「助けるぞ」の仰せに対して「仰せの通りお助けましませ」と弥陀に往生をおまかせした人のことです。「今生において信心獲得を目指し、宿善として聴聞やおつとめ、財施や破邪顕正などを修め、薄い宿善がだんだんと厚くなって、ついに開発した人」という意味ではありません。

その時節をさして至心・信楽・欲生の三信ともいひ、またこのこころを願成就の文(大経・下)には「即得往生住不退転」と説けり。あるいはこの位を、すなはち真実信心の行人とも、宿因深厚の行者とも、平生業成の人ともいふべし。

こうして仏の心光に摂取された時節をさして、至心・信楽・欲生の三信ともいい、またこのこころを本願成就文には「即得往生住不退転」と説かれています。このように他力の信心獲得した人のことを、真実信心の行人、宿因深厚の行者、平生業成の人というのです。
ところで、親鸞会ではこのお言葉の後にある、

されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。

だけを切り取って、宿善として、獲信の因縁として善を修せよと教えていますが、これは間違いです。親鸞会の説く所が正しいのであれば、その後に獲信目指して善を勧められたり、19願の善や定散二善、六度万行といった諸行の勧めがなければなりません。しかしその後には、

しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)と仰せられたり。

とあるだけです。しかも親鸞聖人は「宿善」というお言葉を使われず、「たまたま信心を獲ば、遠く宿縁を慶べ」と仰っています。これは、ひとえに遠い過去からの阿弥陀仏のお計らいを慶べと仰っているのであって、親鸞会流の宿善を求めよ、厚くせよという教えや、「三願転入の教え」なるもの、獲信までに必ず通らねばならない道程とやらはどこにも見当たりません。説かれているのは18願ばかりです。
また、その後に書かれているのは(2)についてです。

これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。このゆゑに、宿善の有無の根機をあひはかりて人をば勧化すべし。

人に真宗の教えを伝える時に、宿善・無宿善の二つを分別し、宿善の有る人か無い人かをあい計って伝えなさいと言われています。「宿善」という言葉を使われているのは、宿善の有る人に法を説きなさいということを門徒の方々に伝えんがためで、宿善の厚薄を問題にしたり、宿善の薄い人は善をして宿善を厚くせよと教えられているのではないことがお分かり頂けるかと思います。


このお手紙でも他のお手紙でも蓮如上人は繰り返し仰っているように、本願(18願)のおこころ、南無阿弥陀仏のいわれをよく心得ることをもって信心獲得というのです。

廃悪修善をトコトン実践し、必死の求道の末に「一つの善もできない私でありました、地獄しか行き場のない私でした」と無間のドン底に叩き落とされた時、間髪いれずに「そのまま救う」の声なき声に抱かれ、「弥陀の本願は私一人を助けんがためでした」と知らされる

こういう体験を信心獲得だと思っている会員さんが多いと思いますが、全然違います。真宗で聴聞とは仏願の生起・本末を聞くことです。いわゆる本願のこころ、南無阿弥陀仏のいわれを聞くことです。そして真宗の信心とは、仏願の生起・本末を聞いて疑いないことですから、これを聞かないことには信心も何も無いのです。しかし、最近の高森会長の話には本願のこころは説かれていますか? あるのは19願や『観経』の顕説、定散二善を根拠とした善の勧めばかりではないでしょうか? あるいは仏願の生起・本末で言えば生起のみで、本末は説かれていないのではないでしょうか?
19願を聞くことは真宗で聴聞とは言いません。会員さんは「とにかく合点だけではダメで、実践しなければ分かったとは言えない」という高森会長の言葉を信じて、親鸞会で推進される活動をしていると思いますが、弥陀の救いに関して聞くべき内容は因果の道理ではありません。19願ではありません。定散二善ではありません。仏願の生起だけではありません。親鸞会では「仏願の生起・本末」とは「仏願の生起を本から末にかけて」と教えますがこれも違います。「仏願の生起と仏願の本末」ということです。聞くべきなのは仏願の生起と仏願の本末です。本願のこころです。南無阿弥陀仏のいわれです。
親鸞会では聞くべき法(本末)がすっぽり抜け落ち、機(生起)ばかりに焦点を当てています。その結果、会員は地獄一定の自己を知らされること、親鸞会でいう機の深信が目的になってしまっています。そうすれば同時に法の深信も立って、信心獲得万々歳と信じているのです。しかし、いたずらに機を責めても救いの法がなければそこに救いはありません。船がなければ水上の石は沈んでしまうのと同じです。
それに、弥陀の救いを求めて廃悪修善を行じても、行き先は方便化土であって真実報土ではありません。真実報土の往生を遂げるには、行は方便の善ではなく選択本願の念仏です。また、定散二善等の自力諸行は雑行ですから、正行を立てずに雑行を勧めるのは真宗教義に違反しています。このように教えも間違いなら行も間違いですから、親鸞会の教えを聞いてまともに実践していたところで救われる道理がありません。世の無常を知り、真に信心獲得、往生成仏を目指しているのなら、相伝もなきしらぬえせ法門である親鸞会とはさよならをして、当流にたつるところの一義に基づいて本願を信じ念仏して頂きたいと思います。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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