蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(24)

 それ、当時世上の体たらく、いつのころにか落居すべきともおぼえはんべらざる風情なり。しかるあひだ、諸国往来の通路にいたるまでも、たやすからざる時分なれば、仏法・世法につけても千万迷惑のをりふしなり。これによりて、あるいは霊仏・霊社参詣の諸人もなし。これにつけても、人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。

しかるに今の世も末法濁乱とはいひながら、ここに阿弥陀如来の他力本願は今の時節はいよいよ不可思議にさかりなり。さればこの広大の悲願にすがりて、在家止住の輩においては、一念の信心をとりて法性常楽の浄刹に往生せずは、まことにもつて宝の山にいりて手をむなしくしてかへらんに似たるものか。よくよくこころをしづめてこれを案ずべし。

しかれば諸仏の本願をくはしくたづぬるに、五障の女人、五逆の悪人をばすくひたまふことかなはずときこえたり。これにつけても阿弥陀如来こそひとり無上殊勝の願をおこして、悪逆の凡夫、五障の女質をば、われたすくべきといふ大願をばおこしたまひけり。ありがたしといふもなほおろかなり。これによりて、むかし釈尊、霊鷲山にましまして、一乗法華の妙典を説かれしとき、提婆・阿闍世の逆害をおこし、釈迦、韋提をして安養をねがはしめたまひしによりて、かたじけなくも霊山法華の会座を没して王宮に降臨して、韋提希夫人のために浄土の教をひろめましまししによりて、弥陀の本願このときにあたりてさかんなり。

このゆゑに法華と念仏と同時の教といへることは、このいはれなり。これすなはち末代の五逆・女人に安養の往生をねがはしめんがための方便に、釈迦、韋提・調達(提婆達多)・闍世の五逆をつくりて、かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、かならず安養の往生をとぐるものなりとしらせたまへりとしるべし。あなかしこ、あなかしこ。(御文章4帖目3通)



このお手紙にも、親鸞会流「三願転入の教え」を始めとした様々な親鸞会の珍説は存在しません。ただ、蓮如上人が獲信のための(因縁としての)善を勧められている、と親鸞会が主張する根拠として

これにつけても、人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。

のお言葉を挙げることがありますので、これについて触れておきたいと思います。これは、人間は老少不定の世の中であると聞くにつけ、菩提涅槃を願ってどのような善根功徳をも修めるようになるであろうと仰っているだけです。親鸞聖人が勧めたもうところの一義として、「だから本願の救いを求めて善をしなさい」と仰ったお言葉ではありません。それは、このお言葉の直後に、

しかるに今の世も末法濁乱とはいひながら、ここに阿弥陀如来の他力本願は今の時節はいよいよ不可思議にさかりなり。さればこの広大の悲願にすがりて、在家止住の輩においては、一念の信心をとりて法性常楽の浄刹に往生せずは、まことにもつて宝の山にいりて手をむなしくしてかへらんに似たるものか。よくよくこころをしづめてこれを案ずべし。

と仰って阿弥陀如来の他力本願という広大の悲願一つを勧められ、一念の信心を獲得して永遠なさとりの境界である極楽浄土に往生するために善をせよとは仰っていないことから分かります。それだけではありません。この後に釈尊が『観経』を説かれた時のことに触れられ、

法華と念仏と同時の教

と書かれています。つまり、『観経』は念仏の教であると仰っているのです。そして『観経』の顕説である定散二善には一切ノータッチであることからも、我々が本願に救われるのに定散二善は必要ないということが分かります。必要なら説かれない道理がないというものです。

これすなはち末代の五逆・女人に安養の往生をねがはしめんがための方便に、釈迦、韋提・調達(提婆達多)・闍世の五逆をつくりて、かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、かならず安養の往生をとぐるものなりとしらせたまへりとしるべし。

釈尊が『法華経』と『観経』を同時に説かれたのは、末代の人々に浄土往生を願わせるための巧みな手立てとして、五逆罪という重罪を造った者であっても不思議の本願(18願)に帰すれば必ず浄土往生を遂げることができる、と知らせるためだと蓮如上人は仰っています。末代の我々には、『法華経』のような自力聖道門の教えを如実に実践できないことは勿論、他力の中の自力の教えである定散二善も、とても修めることができません。定散二善も行自体は聖道行ですから、煩悩にまみれた罪深い凡夫が修めることのできないのは当然のことです。ですから親鸞聖人も蓮如上人も本願の救いを求めて定散二善を修せよとは教えられていません。ひたすら18願のお勧めです。諸善ではなく、我々凡夫にも修めることのできる念仏のお勧めです。

このように親鸞聖人や蓮如上人が勧められていないことを、尤もらしい理屈をつけて勧める人が、浄土真宗の人と言えますか? 親鸞聖人を世界の光と仰ぎ、蓮如上人は親鸞学徒の鑑だと言っているというのは形だけ、口だけだということがよくお分かりでしょう。後生のためには阿弥陀如来の他力本願(18願)だけでは何の不足があってか、「三願転入の教え」なる相伝もなきしらぬえせ法門を説く親鸞会ですが、そんな珍説を聞いて信じて有難がっている暇は我々にはありません。それでも「高森先生は誰も明らかにできなかった親鸞聖人、蓮如上人の真意を明らかにされているのだ」と言う人があれば、その人は高森学徒というべきで浄土真宗の信者ではありません。親鸞会についていくのは勝手ですが、人を巻き込むのは止めて下さい。
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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