蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(25)

 それ、秋も去り春も去りて、年月を送ること、昨日も過ぎ今日も過ぐ。いつのまにかは年老のつもるらんともおぼえずしらざりき。しかるにそのうちには、さりとも、あるいは花鳥風月のあそびにもまじはりつらん。また歓楽苦痛の悲喜にもあひはんべりつらんなれども、いまにそれともおもひいだすこととてはひとつもなし。ただいたづらに明かし、いたづらに暮して、老の白髪となりはてぬる身のありさまこそかなしけれ。されども今日までは無常のはげしき風にもさそはれずして、わが身ありがほの体をつらつら案ずるに、ただ夢のごとし、幻のごとし。いまにおいては、生死出離の一道ならでは、ねがふべきかたとてはひとつもなく、またふたつもなし。

これによりて、ここに未来悪世のわれらごときの衆生をたやすくたすけたまふ阿弥陀如来の本願のましますときけば、まことにたのもしく、ありがたくもおもひはんべるなり。この本願をただ一念無疑に至心帰命したてまつれば、わづらひもなく、そのとき臨終せば往生治定すべし。もしそのいのち延びなば、一期のあひだは仏恩報謝のために念仏して畢命を期とすべし。これすなはち平生業成のこころなるべしと、たしかに聴聞せしむるあひだ、その決定の信心のとほり、いまに耳の底に退転せしむることなし。ありがたしといふもなほおろかなるものなり。されば弥陀如来他力本願のたふとさありがたさのあまり、かくのごとく口にうかむにまかせてこのこころを詠歌にいはく、

 ひとたびもほとけをたのむこころこそ まことののりにかなふみちなれ
 つみふかく如来をたのむ身になれば のりのちからに西へこそゆけ
 法をきくみちにこころのさだまれば 南無阿弥陀仏ととなへこそすれと。

 わが身ながらも本願の一法の殊勝なるあまり、かく申しはんべりぬ。この三首の歌のこころは、はじめは、一念帰命の信心決定のすがたをよみはんべり。のちの歌は、入正定聚の益、必至滅度のこころをよみはんべりぬ。つぎのこころは、慶喜金剛の信心のうへには、知恩報徳のこころをよみはんべりしなり。

されば他力の信心発得せしむるうへなれば、せめてはかやうにくちずさみても、仏恩報尽のつとめにもやなりぬべきともおもひ、またきくひとも、宿縁あらば、などやおなじこころにならざらんとおもひはんべりしなり。しかるに予すでに七旬のよはひにおよび、ことに愚闇無才の身として、片腹いたくもかくのごとくしらぬえせ法門を申すこと、かつは斟酌をもかへりみず、ただ本願のひとすぢのたふとさばかりのあまり、卑劣のこのことの葉を筆にまかせて書きしるしをはりぬ。のちにみん人そしりをなさざれ。これまことに讃仏乗の縁・転法輪の因ともなりはんべりぬべし。あひかまへて偏執をなすことゆめゆめなかれ。あなかしこ、あなかしこ。(御文章4帖目4通)



足早に季節は移り変わり、今年ももう5月です。ついこの間、正月に新年の挨拶をしたと思ったら、3月11日にはあの東日本大震災、そしてはや大震災から2ヶ月が経とうとしています。昨日も過ぎ今日も過ぎ、気付かずにいつの間にか年を取っています。私も早や29歳となりました。毎日忙しなく過ごし、その間それぞれに楽しかった事、嬉しかった事、苦しかった事、悲しかった事があったはずですが、間違いなく事実であったはずの日々の出来事が、まるで夢だったかのようにうまく思い出せません。ただいたずらに明かし暮らして老いの身と成り果てていく、この身の上ほど悲しいものはありません。今日までは無常の激しい風にも誘われず、いかにも自分は死とは無縁であるかのように思っていますが、全くそれは錯覚であります。人生は夢・幻の如しです。なれば私達は今こそ、迷いの世界を出て離れる「生死出離の一道」を願うべきでしょう。
なお、「生死出離の一道」とは親鸞会でおなじみの横の線の道のことではありません。これは「未来悪世のわれらごときの衆生をたやすくたすけたまふ阿弥陀如来の本願」とあるように第18願のことを指しています。私達は、この本願をただ一念無疑に至心帰命したてまつるのみです。「必ず救う」と誓われた本願の仰せをただ計らいなく聞き受けるばかりです。そうすれば、ひとえに本願力によって往生が定まる身となるのです。もしその時臨終を迎えたらすなわち往生成仏し、もしその命が延びたら、一生の間念仏を相続して仏恩を報謝するのです。これが平生業成のこころであると蓮如上人は仰っています。本願を一念無疑に至心帰命するために、19願の善をせよとか、「そこまで光に向かって進め」とか、三世因果の道理が徹底されねばならないとか、地獄一定の自己を知らされねばならないとか、(親鸞会で使っている意味で)後生の一大事に驚き立たねばならないとか、いつも高森会長が説いていることを蓮如上人は一切説いていません。
さて、蓮如上人は続いて「弥陀如来他力本願」「本願の一法」の尊さ、有難さのあまり、お歌を3首詠まれています。なお、いずれも第18願のことであり、諸行往生を誓われた第19願、自力念仏往生を誓われた第20願はこれに含まれてはいません。それは蓮如上人が自らお歌の解説をされ、

この三首の歌のこころは、はじめは、一念帰命の信心決定のすがたをよみはんべり。のちの歌は、入正定聚の益、必至滅度のこころをよみはんべりぬ。つぎのこころは、慶喜金剛の信心のうへには、知恩報徳のこころをよみはんべりしなり。

と仰っていることから分かります。一念帰命の信心決定のすがたとは第18願を計らいなく聞き受けたことです。入正定聚の益、必至滅度のこころとは、第18願に救い摂られて正定聚不退転に住し、本願力によって必ず滅度に至る身となったことです。慶喜金剛の信心とは至心信楽欲生我国の三信であり、行者帰命の一心、つまり第18願のことです。こう言うと、親鸞会の会員は決まって「それは縦の線(一念)のことで、そこまでは光に向かって進まねばならないのだ」と主張しますが、蓮如上人はそんな教えを説いてはいません。このお手紙にも親鸞会流「三願転入の教え」を始めとした、様々な相伝もなきしらぬえせ法門はありません。救いを未来に眺めて、そこまで求めていくというような珍説は、真宗には存在しないのです。

私がどこかに向かって行った先の未来に救われるのではなく、既に私の元に届いている南無阿弥陀仏を只今疑いなく聞き受けるのです。光にたどり着いた人を助けるのではなく、只今ここにいる私を助けるのが本願です。その本願に「どうしたら助かるか」ではなく、「必ず助けるぞ」を聞くのです。親鸞聖人、蓮如上人の教えは、一切の自力を廃した他力回向の法であると知り、どうか只今救われて下さい。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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