蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(26)ー「乞食のよう」「整合性が低い」とは誰のこと?

 それ、中古以来当時にいたるまでも、当流の勧化をいたすその人数のなかにおいて、さらに宿善の有無といふことをしらずして勧化をなすなり。所詮自今以後においては、このいはれを存知せしめて、たとひ聖教をもよみ、また暫時に法門をいはんときも、このこころを覚悟して一流の法義をば讃嘆し、あるいはまた仏法聴聞のためにとて人数おほくあつまりたらんときも、この人数のなかにおいて、もし無宿善の機やあるらんとおもひて、一流真実の法義を沙汰すべからざるところに、近代人々の勧化する体たらくをみおよぶに、この覚悟はなく、ただいづれの機なりともよく勧化せば、などか当流の安心にもとづかざらんやうにおもひはんべりき。これあやまりとしるべし。

かくのごときの次第をねんごろに存知して、当流の勧化をばいたすべきものなり。中古このごろにいたるまで、さらにそのこころを得てうつくしく勧化する人なし。これらのおもむきをよくよく覚悟して、かたのごとくの勧化をばいたすべきものなり。

そもそも今月二十八日は、毎年の儀として、懈怠なく開山聖人(親鸞)の報恩謝徳のために念仏勤行をいたさんと擬する人数これおほし。まことにもつて流を汲んで本源をたづぬる道理を存知せるがゆゑなり。ひとへにこれ聖人の勧化のあまねきがいたすところなり。

しかるあひだ、近年ことのほか当流に讃嘆せざるひが法門をたてて、諸人をまどはしめて、あるいはそのところの地頭・領主にもとがめられ、わが身も悪見に住して、当流の真実なる安心のかたもただしからざるやうにみおよべり。あさましき次第にあらずや。かなしむべし、おそるべし。所詮今月報恩講七昼夜のうちにおいて、各々に改悔の心をおこして、わが身のあやまれるところの心中を心底にのこさずして、当寺の御影前において、回心懺悔して、諸人の耳にこれをきかしむるやうに毎日毎夜にかたるべし。これすなはち「謗法闡提回心皆往」(法事讃・上)の御釈にもあひかなひ、また「自信教人信」(礼讃)の義にも相応すべきものなり。しからばまことにこころあらん人々は、この回心懺悔をききても、げにもとおもひて、おなじく日ごろの悪心をひるがへして善心になりかへる人もあるべし。これぞまことに今月聖人の御忌の本懐にあひかなふべし。これすなはち報恩謝徳の懇志たるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章4帖目5通)



このお手紙にも「宿善」という言葉が出てきます。ただし、宿善を求めよ、厚くせよという意味で使われている箇所は一つとしてありません。蓮如上人においては、大体が人を勧化する時、つまり法を伝える時の心得として、宿善の有無を計り、宿善の機に法を説けと教えられています。宿善の機とは、第18願の救いを信じられる人のことです。我が身は罪悪にまみれ、いずれの行にても生死を離れることができない私が、煩悩具足のままでひとえに他力によって救い摂られるということを受け入れられる人のことです。対して無宿善の機とは、第18願の救いを信じられない人のことです。ひとえに本願力による救いということを受け入れられず、自力でさとりが開けると思ったり、自力に他力が加わって往生・成仏するように思ったりしている人のことです。
そういう人々のために説かれたのが権仮方便の教説です。これを大きく分ければ聖道門、要門、真門という教えがそれに当たりますが、その人その人に応じて説かれたもので、八万四千の法門ともいわれます。これらの法門は、衆生を真実弘願へ導くために暫く仮に設けられた法門であり、衆生が一度真実へ入ったならば還ってこれを廃する教えであります。既に親鸞聖人の教えに遇い、真実弘願(第18願)の救いを求めるようになった人(宿善の機)には、権仮方便の教説である八万四千の法門は不要です。それらの教えはみな自力の善根であるから、実報土に生まれることができないのです。

「随縁雑善恐難生」といふは、「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなはち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。「恐」はおそるといふ、真の報土に雑善・自力の善生るといふことをおそるるなり。「難生」は生れがたしとなり。(唯信鈔文意)

では、釈尊はじめ親鸞聖人、蓮如上人は何を勧められているかといえば、名号を回向される法、すなわち第18願の教法です。私達は専ら18願をお聞きするばかりです。

「故使如来選要法」といふは、釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたへたまへるなりとしるべしとなり。これを「選」といふ、ひろくえらぶといふなり。「要」はもつぱらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。「法」は名号なり。「教念弥陀専復専」といふは、「教」はをしふといふ、のりといふ、釈尊の教勅なり。「念」は心におもひさだめて、ともかくもはたらかぬこころなり。すなはち選択本願の名号を一向専修なれとをしへたまふ御ことなり。(同上)

「選択本願の名号を一向専修なれ」、すなわち18願のみに依れというのが、釈尊、親鸞聖人、蓮如上人を一貫している教えです。ところが、せっかく釈尊がよろづの善のなかより名号をえらびとり、私達に勧めて下さっているにも関わらず、それを無きものにしている輩が平成の今日にいます。善知識方の教えに反し、19願・20願を持ち出して「三願転入の教え」なるものを主張しているのです。彼はその他、様々な珍説を説いておりますが、そういう善知識方の説いておられない教えを「相伝もなきしらぬえせ法門」とか、4帖目5通では「当流に讃嘆せざるひが法門」と仰っています。ゆがんでかたよった教えということです。
それによって、せっかく親鸞聖人の教えに魅かれて集まってきた人々を惑わしています。また、正体を隠した偽装勧誘や深夜の押し掛けなどで世間からとがめられています。そして、自分達の説く所のみが正しくて、他は皆間違いであるなどの誤った見解に陥って、かつ当の本人達は自力を捨てて他力に帰した様子もなく、当流の真実なる安心のかたも正しくないように見えます。その一端が、彼らの決まり文句である「光に向かって進ませて頂きます」などの言葉に表れています。弥陀の救いは私がどこかに向かって行った先の未来にあるものではなく、既に弥陀の方より回向されている名号を今ここで聞き受けるばかりだからです。彼らはいつまでたっても光(?)に向かうばかりで、一向に光(?)に辿り着きません。それについては「極難信の法だから20年や30年で獲られるものではない」と言い訳をし、果ては18願のみを説く者を非難している始末です。彼らは常に18願のみを教え勧められている蓮如上人、更には「19願や20願ではなく18願を説かねばならない」と言っていた過去の自分達の先生をも非難しているということに気がつかないのです。

ここで彼の信者と思しき「アンチkkk」という方が、当ブログの『御文章』3帖目2通について書かれている記事

********************
聖道仏教と浄土仏教を比較相対で説かれているにもかかわらず、
どこから19願が不要という意味をひろってくるのでしょうか。

乞食のように。

末法の人も含めて十方衆生です。
三願とも四十八願とも読める『本願』を、
イコール18願としか読めないんですね。

整合性が低い。

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と実に恥ずかしいことを書いていますが、アンチkkkさんも蓮如上人やかつての自分の先生を非難していることに気づいていない様子です。それに、逆に『御文章』のどこから往生・獲信のために私達に19願が必要という意味をひろってくるのか、蓮如上人が仰っている『本願』を「三願」と読める所は具体的にどこなのか聞いてみたいところです。「乞食のよう」「整合性が低い」とは淳心房のことなのか、それとも彼らのことなのか、判断は読者の皆様に委ねたいと思います。ちなみに、アンチkkkさんがコメントしている3帖目2通で蓮如上人が「本願」と書いておられる箇所は、「弥陀如来の他力本願」「このほとけの本願」「阿弥陀如来の他力本願」の3箇所です。このどれかに「三願」という意味を見いだすことができるのかどうか、全文を含めて読んでみて下さい。

本文に戻ります。しかし、今まではそういう人であっても、蓮如上人は以下のように教えられています。

所詮今月報恩講七昼夜のうちにおいて、各々に改悔の心をおこして、わが身のあやまれるところの心中を心底にのこさずして、当寺の御影前において、回心懺悔して、諸人の耳にこれをきかしむるやうに毎日毎夜にかたるべし。これすなはち「謗法闡提回心皆往」(法事讃・上)の御釈にもあひかなひ、また「自信教人信」(礼讃)の義にも相応すべきものなり。しからばまことにこころあらん人々は、この回心懺悔をききても、げにもとおもひて、おなじく日ごろの悪心をひるがへして善心になりかへる人もあるべし。これぞまことに今月聖人の御忌の本懐にあひかなふべし。これすなはち報恩謝徳の懇志たるべきものなり。

今まではどうであっても、今からが大切です。今まで悪知識に仕え、新興宗教の組織拡大のために利用され、そのために多くの人を騙してきてしまったという人でも、その罪を改悔懺悔して、阿弥陀如来の他力本願を疑いなく聞くことが大切です。阿弥陀仏はそういう人を摂め取って決してお捨てにはなりません。それが親鸞聖人のお心にかなうことであり、報恩謝徳の懇志でもあると蓮如上人は教えられています。どうか皆さん一人一人が本願を信じ念仏を申して、「日ごろの悪心をひるがへして善心になりかへる人」になって下さるよう願っています。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
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蓮如上人時代の門徒の中には、教行信証は難しくて読めず(私も原文ならばとても読めないと思います)、真宗のお聖教としては御文章以外は眼に当てて見ることのなかった人も多かったのではないでしょうか。そんな中で、「三願転入の教え(←親鸞会流の)」に辿り着けた人がいたのか甚だ疑問です。「19願」という文言すら出てこない御文章だけを読んで「三願転入こそ真宗の要だ」と理解した人があったら、「雨夜に星」どころではない希有な人です。そうすると、蓮如上人は親鸞聖人の教えを正確に多くの人に伝えられた人、とは言えなくなりますね。

>広島の名無し様

私も読めません。
蓮如上人当時は教育が発達しておらず、とくに田舎の方では文字も読めない人も多かったと思われます。それは親鸞聖人当時でも同じで、聖人は難しい『教行証文類』ではなく、聖覚法印の『唯信鈔』、隆寛律師の『自力他力事』を読むようにとお手紙に書かれています。『御文章』は勿論、それらにも「19願」「三願転入」という文言は出てきません。勿論、往生・獲信のために19願を勧められてなどおりません。
それらを読んで、「三願転入こそ真宗の要だ」「我々には19願が必要」と理解できるはずもないでしょう。蓮如上人の教えと、高森会長の教えは全く違っていることに、会員の皆さんは早く気付いて頂きたいものです。

No title

19願も 20願も18願に向かっている。
「欲生我国」が根拠。
「欲生我国」のお言葉は
18願に向かっている。

何でもアリの会長さんです。

>ため息様

情報ありがとうございます。またそのような珍説を説いているのですか。

19願の至心・発願・欲生は自力の三心、18願の至心・信楽・欲生は他力の三信であり、自力の三心をひるがえし捨てて如来利他の信心(他力の三信)に帰せしめられるのですがね・・・

定散諸機各別の
 自力の三心ひるがへし
 如来利他の信心に
 通入せんとねがふべし(浄土和讃)

どこにも19願の行の勧めはありません。そのような珍説を会員さんはまた有難がって聞いているのでしょうか。何とも哀れです。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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