蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(27)

 そもそも、当月の報恩講は、開山聖人(親鸞)の御遷化の正忌として、例年の旧儀とす。これによりて遠国・近国の門徒のたぐひ、この時節にあひあたりて、参詣のこころざしをはこび、報謝のまことをいたさんと欲す。しかるあひだ、毎年七昼夜のあひだにおいて、念仏勤行をこらしはげます。これすなはち真実信心の行者繁昌せしむるゆゑなり。まことにもつて念仏得堅固の時節到来といひつべきものか。このゆゑに、一七箇日のあひだにおいて参詣をいたす輩のなかにおいて、まことに人まねばかりに御影前へ出仕をいたすやからこれあるべし。かの仁体において、はやく御影前にひざまづいて回心懺悔のこころをおこして、本願の正意に帰入して、一念発起の真実信心をまうくべきものなり。それ南無阿弥陀仏といふは、すなはちこれ念仏行者の安心の体なりとおもふべし。

そのゆゑは、「南無」といふは帰命なり。「即是帰命」といふは、われらごときの無善造悪の凡夫のうへにおいて、阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなりとしるべし。そのたのむこころといふは、すなはちこれ、阿弥陀仏の衆生を八万四千の大光明のなかに摂取して往還二種の回向を衆生にあたへましますこころなり。されば信心といふも別のこころにあらず。みな南無阿弥陀仏のうちにこもりたるものなり。ちかごろは、人の別のことのやうにおもへり。これについて諸国において、当流門人のなかに、おほく祖師(親鸞)の定めおかるるところの聖教の所判になきくせ法門を沙汰して法義をみだす条、もつてのほかの次第なり。所詮かくのごときのやからにおいては、あひかまへて、この一七箇日報恩講のうちにありて、そのあやまりをひるがへして正義にもとづくべきものなり。

一 仏法を棟梁し、かたのごとく坊主分をもちたらん人の身上において、いささかも相承もせざるしらぬえせ法門をもつて人にかたり、われ物しりとおもはれんためにとて、近代在々所々に繁昌すと云々。これ言語道断の次第なり。
一 京都本願寺御影へ参詣申す身なりといひて、いかなる人のなかともいはず、大道・大路にても、また関・渡の船中にても、はばからず仏法方のことを人に顕露にかたること、おほきなるあやまりなり。
一 人ありていはく、「わが身はいかなる仏法を信ずる人ぞ」とあひたづぬることありとも、しかと「当流の念仏者なり」と答ふべからず。ただ「なに宗ともなき、念仏ばかりはたふときことと存じたるばかりなるものなり」と答ふべし。これすなはち当流聖人(親鸞)のをしへましますところの、仏法者とみえざる人のすがたなるべし。さればこれらのおもむきをよくよく存知して、外相にそのいろをみせざるをもつて、当流の正義とおもふべきものなり。
これについて、この両三年のあひだ報恩講中において、衆中として定めおくところの義ひとつとして違変あるべからず。この衆中において万一相違せしむる子細これあらば、ながき世、開山聖人(親鸞)の御門徒たるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章4帖目6通)



このお手紙では、念仏行者の安心の体である南無阿弥陀仏のいわれと、三カ条の掟とが書かれています。南無阿弥陀仏が安心の体であるとは、南無阿弥陀仏が信心の本体、信心そのものであるということです。それはどうしてかということについて、蓮如上人の解説を聞いてみましょう。

「南無」といふは帰命なり。「即是帰命」といふは、われらごときの無善造悪の凡夫のうへにおいて、阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなりとしるべし。そのたのむこころといふは、すなはちこれ、阿弥陀仏の衆生を八万四千の大光明のなかに摂取して往還二種の回向を衆生にあたへましますこころなり。されば信心といふも別のこころにあらず。みな南無阿弥陀仏のうちにこもりたるものなり。

南無とは、帰命のことです。帰命とは、私達のような無善造悪の凡夫が、阿弥陀仏の「必ず救う」との仰せの通りに往生をおまかせしたこころです。それは、阿弥陀仏が衆生を大いなる光明の中に摂取して往還二種の回向を与えて下さるというこころです。ですから、信心といっても南無阿弥陀仏の他にはないのです。「南無(我をたのめ)阿弥陀仏(必ず救う)」を今ここで計らいなく聞き受けた相が他力信心、真実信心であるということです。信心と南無阿弥陀仏は別物のように思っている人もありますが、そういう人は真宗の信心というものをよく心得ていないのです。

ちかごろは、人の別のことのやうにおもへり。これについて諸国において、当流門人のなかに、おほく祖師(親鸞)の定めおかるるところの聖教の所判になきくせ法門を沙汰して法義をみだす条、もつてのほかの次第なり。所詮かくのごときのやからにおいては、あひかまへて、この一七箇日報恩講のうちにありて、そのあやまりをひるがへして正義にもとづくべきものなり。

例えば、「他力の信心を獲るには、まず19願の修諸功徳の善を励んで、善ができない自分が知らされ、諸善の本である念仏に心が向いて20願へ進む。20願の念仏を称えるが、念仏も称えられない自分が知らされ、地獄一定と切り落された時、18願の世界へ転入する」などという話を親鸞会ではします。いわゆる親鸞会流「三願転入の教え」です。この話の中心は必堕無間の一大事を知らされることであり、19願であり、善の勧めです。私が会員だった平成21年当時は、それだけで話が終わることが多々ありました。最近の高森会長の話は詳しくは知りませんが、

安心問答
飛雲
浄土真宗親鸞会 宇治金時にあこがれて
親鸞会公式ホームページ

等を参照するに、善の勧めに拍車がかかっているようです。善の勧めと言えば聞こえはいいですが、要は献金と勧誘をせよ、やらねば信仰は進まず助からないぞ、後生は一大事だぞということです。ところが、活動に励んでも励んでも出口は見えず、度重なる財施の催促にほとほと嫌気が差しているというのが、偽らざる会員の皆さんの本音ではないかと思えてなりません。
さて、この話だと、19願の善に励んでいけばやがて信仰(?)が進んで20願へ、20願の念仏に励んでいけば更に信仰(?)が進んで18願へ、そこで他力の信心が獲られるということになります。ここには何か足りないものがあります。会員の皆さんはお分かりでしょうか? それが「南無阿弥陀仏のいわれ」です。信心と言っても南無阿弥陀仏の他にはなく、南無阿弥陀仏を聞くのが信心ですから、南無阿弥陀仏を聞かないことには信心獲得も何もありません。そんな大事なことは説かず、善の勧めばかり説いているのですから、会員さんに獲信者が現れないのも当然です。
また、この話だと、信心と南無阿弥陀仏の関係がよく分かりません。会員さんの多くは地獄一定の自己が知らされたことをもって信心獲得のように思っているかも知れませんが、これでは信心と南無阿弥陀仏は無関係です。南無阿弥陀仏を何と心得て本尊にしているのか、会員さんは分かっているのか甚だ疑問です。

親鸞会流「三願転入の教え」を始めとした、主要な親鸞会の説は、全くもって「祖師(親鸞)の定めおかるるところの聖教の所判になきくせ法門」であります。そのようなくせ法門を説いて法義を乱すことは、もってのほかであると蓮如上人は仰せです。4帖目6通にも、「三願転入の教え」は勿論、必ず通らねばならない道程、一切衆生必堕無間説、善知識の指示に無条件服従せよという教え、獲信のための(因縁としての)善の勧め、宿善を求めよ・厚くせよという教え、因果の道理等は教えられておりません。会員の方は、相伝もなき知らぬえせ法門は早く捨て去り、南無阿弥陀仏のいわれを疑いなく聞いて頂きたいと思います。
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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