蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(35)

 一流安心の体といふ事。

 南無阿弥陀仏の六字のすがたなりとしるべし。この六字を善導大師釈していはく、「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行 以斯義故必得往生」(玄義分)といへり。まづ「南無」といふ二字は、すなはち帰命といふこころなり。「帰命」といふは、衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへとたのみたてまつるこころなり。また「発願回向」といふは、たのむところの衆生を摂取してすくひたまふこころなり。これすなはちやがて「阿弥陀仏」の四字のこころなり。

さればわれらごときの愚痴闇鈍の衆生は、なにとこころをもち、また弥陀をばなにとたのむべきぞといふに、もろもろの雑行をすてて、一向一心に後生たすけたまへと弥陀をたのめば、決定極楽に往生すべきこと、さらにその疑あるべからず。このゆゑに南無の二字は衆生の弥陀をたのむ機のかたなり。また阿弥陀仏の四字はたのむ衆生をたすけたまふかたの法なるがゆゑに、これすなはち機法一体の南無阿弥陀仏と申すこころなり。この道理あるがゆゑに、われら一切衆生の往生の体は南無阿弥陀仏ときこえたり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章4帖目14通)



一流安心の体は、南無阿弥陀仏の六字のすがたです。この六字のいわれをよく心得ることをもって信心獲得というのです。信心を獲得するというと、長い求道の果てに獲られるもののように思いがちですがそうではありません。南無阿弥陀仏が信心の体であり、そのいわれを聞くのがすなわち信です。ですから、六字のいわれを聞かないことには信心獲得も何もありません。南無阿弥陀仏と信心は別のことではなく、南無阿弥陀仏が信心そのものなのです。蓮如上人が南無阿弥陀仏のいわればかりを説かれているのはそのためです。
ここではまず、善導大師の六字釈を引かれています。「南無」というのは帰命ということです。「帰命」というのは、阿弥陀仏の「後生助けるぞ」の先手の法を計らいなく聞き受け、「仰せの通りお助けましませ」と救いの法を受容することです。こちらが「後生助けて下さい」と先手に出るようではなりません。あくまで阿弥陀仏が先手、その先手の一手で往生に関しては試合終了です。私の手、私のターンというのは存在しません。
また「南無」というのは発願回向であると教えられます。「発願回向」というのは、「お前の後生助ける」という阿弥陀仏の願いを私達に回向し、助けて下さるということです。これはすなわち「阿弥陀仏」の四字のこころであります。
では、真実の道理がわからず、心が暗く愚かで、仏法に対する反応が鈍い私達は、どのように心し、どのように弥陀をたのめばよいのでしょうか? それについて蓮如上人は、

もろもろの雑行をすてて、一向一心に後生たすけたまへと弥陀をたのめば

極楽往生は決定だと教えられています。定散二善や六度万行などの自力諸行は、阿弥陀仏が本願の行として選び捨てられたものです。本来往生行ではありませんから、「もろもろの雑行」と言われます。これを修めて往生を願っている行者を阿弥陀仏の光明は照らし摂めては下さいません。助ける本願に先行して私が先手になって、阿弥陀仏を後手に回していますから弥陀をたのむ身にはなれません。
「一向一心」とは、余仏(阿弥陀仏以外の諸仏、菩薩、諸神)を念じないことに加えて、余善(雑行)にうつらないことです。そして、阿弥陀仏が本願の行として選び取られた念仏一行を二心なく専ら修することを言います。これは、念仏を称えていたら助かるという自力の臭みのある念仏ではありません。阿弥陀仏の方から回向されるところの念仏です。助ける法である南無阿弥陀仏を計らいなく聞き受けて自力が捨て去られ、本願を信じ念仏するということです。ですから称える念仏に、念仏して助かろうという心はさらさらありません。
こうしたことから、「南無」の二字はたのむ機のかた、すなわち衆生の阿弥陀仏に往生をおまかせした信心です。「阿弥陀仏」の四字は、たすくる法のかた、つまり摂め取って決してお捨てにならない弥陀の願力です。この道理があるがゆえに、私達一切衆生の往生の体は南無阿弥陀仏であるというのです。

このように蓮如上人は本願のこころ、南無阿弥陀仏のいわればかりを説かれ、この六字をよく心得て今度の一大事の往生極楽を遂げなさいと教えられています。18願の救いに遇うのに、以下のような教えはありません。

・19願の善、20願の念仏を行じなければならないという親鸞会流「三願転入の教え」
・(横の線を指して)この道を進んで、(縦の線を指して)ここで救われると説明する時の、横の線に該当する教え
・因果の道理をやかましく説き、その結論である廃悪修善をせよという教え
・必堕無間の自己を知らねばならないと罪悪を並べ立て、地獄の恐怖を煽ること
・善知識の指示に無条件服従しなければならないという教え
・善をしなければ信仰は進みませんという教え
・宿善を求めよ、宿善を厚くせよという教え
・雑行が雑行と知らされ捨たるには、19願の善(雑行)をしなければならないという教え


このような相伝もなきしらぬえせ法門を説く高森会長の意図は様々に推測できますが、会員の信心獲得、往生成仏を願っていないことは明らかでしょう。18願のみを勧められている蓮如上人に反して、諸行往生であり臨終来迎である19願を持ち出し、雑行を勧めているのですから。19願に誓われている通りの善ができたとしても、結果は臨終の来迎であり、化土往生です。しかし実態は善の勧めとはほど遠い、えせ法門を説く親鸞会への献金と勧誘の勧めでありますから、高森会長の言う通り「雑行にもなっていない」、諸悪の勧めとなっています。こんな教えや知識にいくら従ったところで会員の皆さんの後生は助かりません。親鸞会流「三願転入の教え」を始め様々な珍らしき法からは早く脱却し、18願のこころ、南無阿弥陀仏のいわれを聞かれることを強くお勧めします。それが自身の往生極楽のためでもあり、仏恩報謝・師徳報謝ともなるのです。どうか、信仰が進んだ未来の救いを求めるのではなく、只今救う本願を聞いて只今救われて下さい。
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法:自力を捨てよ 
絶:捨て方わかんない
法:捨てようとする心も捨てよ   


ぎぶ

>絶倫棒様

自力自力とこだわり、捨てようとしても捨てられるものではありません。「必ず助ける」本願を聞くところに自力の計らいが捨たるのです。
「助けるぞ」の弥陀の仰せを聞くのが信です。それで往生が定められたのです。御親に背を向け逃げ続けてきた私が、親の御胸に抱き摂られたのです。私に向かって常に喚び続けられている「助けるぞ」の仰せ、それが南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

むずっ
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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