蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(36)

 そもそも、当国摂州東成郡生玉の庄内大坂といふ在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや、さんぬる明応第五の秋下旬のころより、かりそめながらこの在所をみそめしより、すでにかたのごとく一宇の坊舎を建立せしめ、当年ははやすでに三年の星霜をへたりき。これすなはち往昔の宿縁あさからざる因縁なりとおぼえはんべりぬ。

それについて、この在所に居住せしむる根元は、あながちに一生涯をこころやすく過し、栄華栄耀をこのみ、また花鳥風月にもこころをよせず、あはれ無上菩提のためには信心決定の行者も繁昌せしめ、念仏をも申さん輩も出来せしむるやうにもあれかしと、おもふ一念のこころざしをはこぶばかりなり。またいささかも世間の人なんども偏執のやからもあり、むつかしき題目なんども出来あらんときは、すみやかにこの在所において執心のこころをやめて、退出すべきものなり。これによりていよいよ貴賤道俗をえらばず、金剛堅固の信心を決定せしめんこと、まことに弥陀如来の本願にあひかなひ、別しては聖人(親鸞)の御本意にたりぬべきものか。それについて愚老すでに当年は八十四歳まで存命せしむる条不思議なり。まことに当流法義にもあひかなふかのあひだ、本望のいたりこれにすぐべからざるものか。

しかれば愚老当年の夏ごろより違例せしめて、いまにおいて本復のすがたこれなし。つひには当年寒中にはかならず往生の本懐をとぐべき条一定とおもひはんべり。あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。またはこの在所に三年の居住をふるその甲斐ともおもふべし。あひかまへてあひかまへて、この一七箇日報恩講のうちにおいて、信心決定ありて、われひと一同に往生極楽の本意をとげたまふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章4帖目15通)

  明応七年十一月二十一日よりはじめてこれをよみて人々に信をとらすべきものなり。



このお手紙が、年月日の書かれているものとしては最後のものとなります。蓮如上人の常の思いとは、最後の一文に表れている通り、人々が信心決定して、一同に往生極楽の本意を遂げることであったと分かります。
蓮如上人は、現在の大阪城付近、後の石山本願寺となる一宇の坊舎を建立され、このお手紙を書かれるまでそこで3年を過ごしておられます。上人は、「ここに居住しているのは、決して一生涯をこころやすく過ごすためではありません。栄耀栄華をこのむためでもありません。春は花鳥を、秋は風月を楽しむというような、この世の楽しみを味わうためでもありません。ただこの上ない仏のさとりのためには信心決定の行者も繁昌し、本願を信じ念仏を称える人々が現れてほしいがためです」と仰っています。

これによりていよいよ貴賤道俗をえらばず、金剛堅固の信心を決定せしめんこと、まことに弥陀如来の本願にあひかなひ、別しては聖人(親鸞)の御本意にたりぬべきものか。

身分が尊いとか賤しいとか、僧侶だとか在家だとかによらず、その他善悪賢愚の隔てなく、金剛堅固の信心を決定し、往生極楽を遂げることこそ、まことに弥陀如来の本願のお心にかない、別しては親鸞聖人の御本意にかなうことです。それには今までのお手紙に何度も何度も書かれている通り、一心一向に弥陀如来をたのみたてまつるばかり、言葉を変えれば、南無阿弥陀仏の六字のいわれをよく心得るばかりです。余善他仏にうつらず、「南無(我をたのめ)阿弥陀仏(必ず助ける)」という力強い本願の仰せを計らいなく聞き受け、その仰せのままに後生を阿弥陀仏に全託するばかりです。「必ず助ける」と聞くのが信であり、本願の仰せ(南無阿弥陀仏)を受容する以外に信心はありません。後生のためにはこの南無阿弥陀仏の他に何の不足があってか、相伝もなきしらぬえせ法門を説いて人々を惑わし、ものを取るばかりの輩がありますが、そんなものを信じていても何の所詮もないばかりか、せっかくの今度の往生極楽を遂げることができなくなってしまいます。

さて蓮如上人は、その年の夏頃から病気になり、今もその病が全快する気配もなく、「当年寒中にはかならず往生の本懐をとぐべき条一定とおもひはんべり」と御自身の死を覚悟しておられます。そして、

あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。

と続きます。ここで、「存命のうちにみなみな信心決定あれかし」という蓮如上人の切なる願いを読みながら、「宿善まかせ」という言葉を悪用して珍らしき法を弘めている輩がいることに注意しなければなりません。彼は後生助かるには宿善を求めよ、厚くせよと言って、宿善として聴聞、勤行、六度万行等を挙げ、会員に推進していますが、蓮師の上にそのような教えはありません。もしあるなら、「宿善を求めよ、厚くせよ」と仰った根拠を蓮師の上に挙げてもらわねばなりません。彼は他にも、

後生助かるには(信心決定するには)、
・19願の善、20願の念仏を行じなければ18願の世界には入れないという「三願転入の教え」
・信前の人が必ず通らねばならない道程として図示している「横の線」に該当する教え
・因果の道理を徹底して、その結論である廃悪修善をせよという教え
・必堕無間の自己を知らねばならないとして罪悪を並べ立て、地獄の恐怖を煽る教え
・善知識の指示に無条件服従しなければならないという教え


などを説いていますが、いずれも宗祖、蓮師の上にはない珍説ばかりです。彼の教えを信じている人達は、他力回向の法に対して自力回向の考えに陥り、阿弥陀仏に向いているつもりが知識に向き、平生業成の教えを求めているつもりが臨終業成、多生業成になってしまっています。「只今無条件で救う」本願(18願)に救われるのに、「臨終に修諸功徳の善を修めた者を迎え取る」19願を実践せよ、善をしなければ信仰は進まない、と説いているのですから、救いは善をして信仰が進んだ未来としか思えなくなるのは当然です。そして「救われるのは一念だが、そこまでに通らなければならない道がある」と思いこまされ、18願への直入を妨げられているのです。今日とも知れず、明日とも知れない命である私達は、

後生の一大事の解決には、後生の一大事とは何であるかを知らねばならない。
後生の一大事を知らされるには、因果の道理を聞いて廃悪修善をしなければならない。
因果の道理を聞き、廃悪修善をしていくと、真実の自己のすがたが見えてくる。
それは一つの善もできない必堕無間の自己であり、そこで後生に驚きが立つ。
その解決には19願の善(定散二善)をしなければならない。
信仰が進むと善のできない自分が知らされて、20願へと進む。
20願の念仏を称えて助かろうとするが、念仏も称えられない自分が知らされる。
地獄は一定すみかと切り落されて、自力無功と知らされると同時に、間髪入れずに18願に摂取される。
この世はたとえ死が来ても崩れない絶対の幸福に生かされ、往生一定の身になる。


と悠長に観念の遊戯をして、助かるまでのシナリオを妄想している余裕はありません。また、無駄に貴重な時間を献金と勧誘のために消費している暇はありません。「お前を必ず救う」という本願は名号となって既に私の元へ届いています。私は今ここで私一人を救うという仰せを疑いなく聞き受けるのみです。ですから、平生只今の救いなのであり、臨終の人であっても救われるのです。善人も悪人も、男も女も、老いも若きも、賢くても愚かでも、その他あらゆる差別を超えて平等に救われるのはそのためです。
どうか、自分には助からない教義であると彼の珍説は見限って下さい。今日が貴方の命尽きる時ですよ。善をして信仰を進めないと助からない教えで、今日助かりますか? そして直ちに救い摂る18願を聞いて、一同に往生極楽の本意を遂げたいと思います。しかし、これに関してはまことに「宿善まかせ」です。とはいいながら、述懐のこころは暫くも止むことはないと蓮如上人は書いておられます。蓮如上人の教えをよく聞いて、南無阿弥陀仏のいわれを心得、信心獲得して往生極楽を遂げて下さることを私も願います。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

>秘密コメント様

それでは今のような状態になってしまってもおかしくはないですね。一人なりとも人の信を取るのが一宗の繁昌と言っておきながら、既に心は人の多く集まり威の大いなることを繁昌という概念に支配されていたのでしょう。


如来回向のご信心とは、加茂師の言葉を借りれば

阿弥陀さまの「助けてやるぞ」の仰せを、すなおに、頂いたのです。これだけです。

ということです。「助けるぞ」の仰せを聞くのが信です。「助けるぞ」の仰せとは南無阿弥陀仏のいわれのことであり、それを聞くということが信心なのです。
私達はともすると、「助かりたい」「安心したい」「ハッキリなりたい」と自分の願いばかり阿弥陀さまに押しつけてしまいます。そうではなく、阿弥陀さまの願いを私達が一方的に受けるのです。「後生助けるぞ」の願いに疑いないのが信心です。それを「そこまで聞かせて頂きます」ではなく、「今ここで私一人を助ける本願」と聞いて頂きたいと思います。

しゅくぜんの定義は?

しゅくぜんまかせ?なのに、じゅっぽー衆生なのはなぜ?

>絶倫棒様

お尋ねの疑問につきましては、

『安心問答』「宿善まかせ」は「過去世に積んだ善根まかせ」ではありません(花さんのコメント)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110131/1296464593

を参照して頂きたいと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード