信心の生活(4)-真の仏弟子、実践の視野

『真宗の教義と安心』(本願寺出版社)より引用

第五章 念仏者の利益
 第二節 現生の利益
 ロ、信心の生活

(つづき)

 また諸仏は、他力念仏の法を説き示し、証誠し、念仏者を護念しているのであって、念仏者はその恩徳を念じなければならない。「信文類」に「真仏弟子釈」をもうけられ、

 真の仏弟子といふは、真の言は偽に対し仮に対するなり。弟子とは釈迦諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。この信行によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆえに、真の仏弟子といふ。(二五六)
 仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。(二六五)
 偽といふは、すなはちこれ六十二見・九十五種の邪道これなり。(二六五)


と、念仏者こそが、釈迦諸仏の真の仏弟子であると示される。しかし、六十二見・九十五種の邪道といわれる仏教以外の教えを依りどころとしないのはもちろんであるが、私たちは、聖道自力の教えや浄土門内であっても自力の教えによっても、結局大涅槃を証することができず、一切の衆生を悟りの道に入らしめようとする釈迦諸仏の本意にそわないことになる。すなわち、第十八願他力念仏の法によって私たちを救済する仏は阿弥陀仏一仏であって、一心一向といわれるように、阿弥陀仏一仏を帰依の対象とするものである。その意味で、諸仏・諸菩薩に対する姿勢と阿弥陀仏に対するもまた一線を画されるべきものであろう。
 しかしながら、親鸞聖人の時代と、多様な宗教の存在する現代とを一様に考えることはできない。仏教以外の宗教においても、人間の欲望・自己中心性をますます助長するような宗教から、自らの罪悪性を深く反省せしめる宗教にいたるまで多種多様である。私たちは、念仏の教え以外の教えについて、かるがるしくこれを軽侮したり、無批判にこれに同調したりすることなく、尊重すべきものは尊重し、批判すべきものは批判し、基本的には、あくまでも弥陀一仏に帰依された聖人に学び、阿弥陀仏の本願を究極の帰依処とする立場を確立して、他の宗教に対すべきであろう。
 以上述べてきたように、念仏者の姿勢は、阿弥陀仏を絶対的な救済者として仰ぐというものである。それはまた『歎異抄』に示される親鸞聖人の言葉に、

 煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。(八五三)

とあるように、自らを含めた世間の一切の虚妄性の信知でもある。仏法すなわち阿弥陀仏を除いた余の一切の虚妄性の信知とは、自らの価値基準及び世間的権威は相対的なものであるという信知でもある。すなわち、自らの行動の選択決定に際し、自己自身の価値基準あるいは世間一般の価値基準を絶対視せず、あくまで相対化したうえで自己の行動を決定していくところに、念仏者の生活の特質を見てゆくべきであろう。自己自身の価値基準を絶対化するとは、すなわち自己自身の殻に閉じこもることであり、自己自身の価値基準を相対化するとは、すなわち何事に対しても広い視野を持つことであろう。念仏者の社会的実践とは、そのような広い視野に立った実践であるということができる。

(七六~八七頁)
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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