大経讃(6)「諸善万行ことごとく」の御和讃(2)

大経讃(5)「諸善万行ことごとく」の御和讃の続きです。

今日は、「諸善万行ことごとく」の御和讃について、親鸞会ではどのように教えられているのか見ていきます。


(例1)親鸞会関係のホームページ弥陀の願心を伝える「善をしなければ信仰は進みませんよ」には、

「『諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆえに
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり』

 ともおっしゃっています。
 『諸善万行』とは、仏教で教えられるいろいろの善です。
 『至心発願』とは、弥陀が19願に、『至心発願 欲生我国』と説かれていることで、
゛まことの心で、阿弥陀仏の浄土に生まれたいという願を起こして゛という意味です。

『往生浄土の方便の善』の『方便』とは、『真実』に入れるに絶対必要なものをいいます。
 明らかに、諸善を勧めておられるお言葉です」


とあります。これは、「往生浄土の方便の善」の「方便」が権仮方便であることを知らないことに由来する解釈です。

前回、利井鮮妙師の解釈を紹介しましたが、その中で

「「往生淨土の方便」とは、往生淨土は聖道に對し、方便は眞實に選ぶ。爾れば即ち往生淨土門中の權假方便の善となるぞとなり。『一多證文』(二十一丁)に「八萬四千の法門は、みなこれ淨土の方便の善なり。これを要門といふ、これを假門となづけたり」とあり。爾れば聖道の諸善萬行、發願の因に依りて淨土門の方便假門の善根とならぬはなしと示すが此の一首なり。」

とありました。親鸞会では、権仮方便も善巧方便も意味を知らずに使うからこのような解釈になってしまうのです。

権仮方便と善巧方便の意味を知らずに使っている他の例として、『本願寺なぜ答えぬ』から一つ挙げると、140頁に、

「なにしろ、自惚れ強く、相対の幸福しか知らない、我々を、絶対の幸福まで導くことは、難中の難事。どうしても、善巧方便が、不可欠だった。
 十九・二十の二願は、その、必要に応じて建立なされたものである。」


と書かれています。十九・二十の二願は、権仮方便の願です。善巧方便ではありません。親鸞聖人が十九願は権仮方便の願であると教えられているお言葉は、大経讃(2)ー「至心・発願・欲生と」のご和讃を参照して下さい。

また、権仮方便、善巧方便についてまだご存知でない方は、『21世紀の浄土真宗を考える会』方便といふこと 6善巧方便と権仮方便を参照して下さい。



(例2)『本願寺なぜ答えぬ』165~166頁には、

「諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆえに
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり(浄土和讃)

 仏教で修善をすすめるのは獲信の方便(因縁)に、ほかならない。
゛獲信の因縁にならぬ諸善はなかりけり゛
 親鸞聖人の、ご金言である。
 なのに本願寺は、獲信の因縁にならぬ、として、修善のすすめを非難するのだ。」


と書かれています。

「浄土の方便の善」は要門であり、要門の行信の果は、獲信ではありません。化土往生です。
仏教で修善をすすめるのは、八万四千の法門それぞれで説かれる証果をえさせるためです。
平たくいうと、「○○という善をしなさい、そうしたら△△という果がえられますよ」ということが、八万四千の法門それぞれで説かれているのです。

「報土往生という果は、本願力回向の信心という因よってえられる」と親鸞聖人は明らかになされました。

そして、自力諸善は、報土往生の役には立たないと、釈尊も親鸞聖人も説かれています。

「少善根福徳の因縁をもつてかの国に生ずることを得べからず。」(阿弥陀経)

「この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。」(教行信証信巻)


このことは、親鸞会でも認めざるを得ません。ですから、『本願寺なぜ答えぬ』115頁には、

「だからこそ親鸞会は、修善は獲信の因縁(宿善)とは、いっても、往生の資助になる、と、いったことは、一度もない。
(「宿善になる」というのは、「往生の資助になる」、ということでは断じてない。きき誤ってはならないところ)」


と書かれています。


ここで問題になってくるのは、親鸞会の主張するように、「獲信の因縁(宿善)」として、聴聞・勤行・六度万行を実践しなさいということを、親鸞聖人が教えられているかどうかということです。

その主張を防衛するために親鸞会が出版したのが、『本願寺なぜ答えぬ』です。しかし、その内容が根本的に間違っていることは、いろいろなところで指摘されています。

『親鸞会教義の誤り』「親鸞会は諸行往生」宿善とはに詳しく書かれていますので、参照して下さい。


また『本願寺なぜ答えぬ』は、相手の主張をものすごく歪曲して書かれています。高森会長が全文を掲載しなかった、紅楳英顕著『派外からの異説について』を読まれるとお分かり頂けると思います。

一例を挙げると、『本願寺なぜ答えぬ』107頁には、

「とにもかくにも、聞法が、獲信の因縁(宿善)になることを、タテマエだけでも、本願寺が認めたことは、おめでたい。」

とありますが、『派外からの異説について』を読めば、

「そもそも、真宗の「聞」とは、第十八願成就文の「聞其名号信心歓喜」の如実の「聞」でなければならない。これは、第二十願の「聞我名号係念我国」の「聞」とも峻別される他力の「聞」なのである。高森親鸞会の主張のように、破邪顕正や財施等の自力の行と同列に扱うこと自体が、そもそも問題なのである。」

と、聴聞が宿善になるという考えの問題が指摘されているのであり、「聞法が獲信の因縁(宿善)になることを認めた」文章は存在しません。

ところが、本願寺の主張を知らず、『本願寺なぜ答えぬ』だけを読まされる会員は、「宿善は待つにあらず、求むるものなり」、「聞法にまさる、獲信の因縁はない」、「聞法が獲信の因縁(宿善)になると本願寺が認めた」と読んだ延長で、「諸善も獲信の因縁」と続くので「獲信の因縁にならぬ諸善はなかりけり」という親鸞会解釈を何の疑いもなく受け取ってしまうのでしょう。

そもそも今日の記事の御和讃が出てくる165頁までの内容が、間違いと相手の主張の歪曲などのオンパレードなのです。この事実に会員のみなさまにも早く気が付いて頂きたいものです。


親鸞会では、「善をしなければ信仰は進みませんよ」や「獲信の因縁にならぬ諸善はなかりけり」など独自の用語が用いられていますが、お聖教にない言葉は気をつけて見ていかねばなりません。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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