蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(44)

 それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。

これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなりとしるべし。されば南無阿弥陀仏の六字のこころは、一切衆生の報土に往生すべきすがたなり。このゆゑに南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるこころなり。このゆゑに「南無」の二字は、衆生の弥陀如来にむかひたてまつりて後生たすけたまへと申すこころなるべし。かやうに弥陀をたのむ人をもらさずすくひたまふこころこそ、「阿弥陀仏」の四字のこころにてありけりとおもふべきものなり。これによりて、いかなる十悪・五逆、五障・三従の女人なりとも、もろもろの雑行をすてて、ひたすら後生たすけたまへとたのまん人をば、たとへば十人もあれ百人もあれ、みなことごとくもらさずたすけたまふべし。このおもむきを疑なく信ぜん輩は、真実の弥陀の浄土に往生すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章5帖目8通)



五劫思惟の本願というのも、兆載永劫の修行というのも、それはただ阿弥陀仏が私達一切衆生を一途に助けようとされてのことです。そのために阿弥陀如来が御苦労下さって、南無阿弥陀仏という本願(第18願)を建てて下さいました。その本願には、「迷いの衆生(そなた)よ、もろもろの雑行を捨てて、一向一心に我をたのめ、必ず救うてみせる。もしできなければ、決してさとりを開くまい」と誓われてあります。その願は既に成就して、南無阿弥陀仏と成って下さっています。
この南無阿弥陀仏こそが、私達が易く極楽に往生するいわれです。南無阿弥陀仏の六字のこころとは、一切衆生が報土に往生するすがたなのです。それは、南無と帰命すれば、すぐさま阿弥陀仏が私達をお救い下さるというこころです。「南無」の二字は、衆生に向かって「後生助けるぞ」と喚びかけられている弥陀如来の勅命を計らいなく聞き受け、仰せの通りに後生をおまかせ致すというこころです。そのように弥陀をたのむ人を、漏らさずお救い下さるというこころが、「阿弥陀仏」の四字のこころです。これによって、どんなに罪の重い者であっても、もろもろの雑行を捨てて、「後生助けるぞ」を聞き受けた人を、十人でも百人でも、阿弥陀仏は皆ことごとく漏らさずお助け下さいます。このいわれを疑いなく聞き受けた者は、真実の弥陀の浄土に往生することでしょう。

ここで補足です。まず、「われら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に」とある「方便」は、その後に「阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして」とありますから善巧方便のことです。十九願要門、二十願真門といった権仮方便のことではありません。また、これらの権仮方便の教説は、私達が十八願の救いに遇うのに必要ありません。もし我々が救われるのに権仮方便の教説が必要なら、蓮如上人は信心獲得を目指して十九願の善をせよといった教えを説いておられなければおかしいでしょう。ところが十九願という文言すらないですし、獲信目指して善を勧められている文証はありません。
次に、「もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたの」むということですが、一切の定散の諸善はことごとく雑行です。

上よりこのかた一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく(愚禿鈔)

弥陀をたのむのに、「雑行をすてて」とこそ教えられ、「雑行をさせ」とは教えられていません。また、諸善(雑行)をしなければ雑行が雑行と分からないのではなく、親鸞聖人が「雑行とはこういうものですよ」と教えられているから、私達は諸善が雑行であると分かるのです。そして、雑行が往生の役には立たない、往生のためには捨てものであるということも分かるのです。それに、一向一心とは、余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専ら阿弥陀仏を信ずることを言います。

「一心専念」(散善義)といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。(一念多念証文)

「諸善(雑行)をしなければ雑行が雑行と分からない」「そうしなければ雑行がすたらない」などという理屈で雑行を修めていたら、いつまでたっても弥陀を一向一心にたのむ身にはなれません。日常生活を営む上では倫理道徳上の善は心がけて実践せねばなりませんが、往生・獲信のためには「雑行をすてて」です。日常生活上の善果を求めるならそれ相当の善い行いをしなければなりませんが、報土往生という結果を求めるなら「雑行をすてて」です。

やはり5帖目8通にも、親鸞会流「三願転入の教え」、横の線に該当する教え、一切衆生必堕無間という教え、善知識の指示に無条件に従わねばならないという教え、因果の道理を強調の上獲信目指して廃悪修善をせよという教え、宿善を求めよ・厚くせよという教え、雑行の勧め等々、親鸞会で言われる珍説は存在しませんでした。もし、「諸善(雑行)をしなければ雑行が雑行と分からない」「そうしなければ雑行がすたらない」と主張するなら、「雑行を雑行と知らされすたるのに雑行をせよ」と仰った文証がなければなりません。ありますか? あったら挙げてもらいたいものです。親鸞会の教えの根拠は、止まる所「高森会長の言葉」であって、「親鸞聖人の言葉」「蓮如上人の言葉」ではありません。親鸞会はどこまでいっても高森教でしかないことを、一人でも多くの会員さんに分かってもらいたいと思います。
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真宗の教えは末代無智の在家止住のともがらに相応した法ですので、何も難しいことはありません。詮ずる所、如来の「助けてやるぞ」を聞くのみです。
対して親鸞会教義は、分かりにくい表現をして聞く者に誤解を与えるばかり。それに説かれるのは機のみと言っても過言ではなく、救いの法はありません。そして救われないことを聞き手の聞き誤りのせいにして、その都度コロコロ教えを変える新興宗教です。本人は教えを利用して己が欲望を果たすことしか頭にないようですから、浄土真宗と言いつつただの新興宗教になったのでしょう。
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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