信の一念の自覚は問題ではありません

親鸞会では、信の一念が火に触ったよりもハッキリする、盲者開眼の一刹那よりハッキリ自覚できるものだという根拠に、

他力の信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御方よりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。かるがゆゑに、行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。(御文章2帖目13通)

の部分を挙げます。しかし、これは信の一念がハッキリ自覚できるということを仰ったものではありません。読めば分かるように、他力の信心とは我々凡夫の方で起こす信心ではなく、如来回向の大信心であることが明らかに知られると仰ったものです。いわゆる本願力回向の法を疑いなく受容しているということです。そういう点で「弥陀の救いはハッキリする」と言えます。ところが親鸞会では

他力の信心といふことをばいますでにえたり。乃至いまこそあきらかにしられたり。

というように大事な部分を「乃至」という語で省略して用い、信の一念の自覚を問題にします。そのため、会員は信の一念はハッキリするものだ、ハッキリした体験をしなければ信心決定ではないと思い込み、そのような何かハッキリした体験を求めているのです。そして獲信したら、ちょうど『世界の光 親鸞聖人』のアニメの、親鸞聖人獲信のシーンのように自分もなると思っていることでしょう。これは、間違った教えの聞き過ぎと、ヘンテコアニメの見過ぎと、高森先生信心による思い込みから、信心決定、信心獲得の意味を間違えているからです。

信心決定、信心獲得とは、南無阿弥陀仏の六字のこころをよく心得たことです。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。(御文章5帖目5通)

「我をたのめ、必ず救う」の仰せを計らいなく聞き受け、後生を弥陀におまかせしたことをいうのです。そのおまかせした瞬間、つまり「信の一念」はあるのですが、その瞬間の自覚は問題ではありません。蓮如上人は問題にされていません。
信の一念、それは獲信の現在からいうと過去のことです。信の一念の自覚を問題にするということは、過去の体験を問題にするということです。信心決定する、弥陀をたのむというのは、そのような過去の体験をたのみにするのではありません。現在只今弥陀の仰せを計らいなく聞いていることが信心獲得する、弥陀をたのむということです。

・しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。(化身土文類)
・他力の信心といふことをばいますでにえたり。(2帖目13通)


と仰せのように、親鸞聖人、蓮如上人は信心を「いま」で語っています。親鸞聖人は、後序に「建仁元年に雑行を棄てて本願に帰依した」と述べておられますが、もし本願に帰依した瞬間が親鸞会で言うようにハッキリ自覚できることなら、正確ではなくても「何年何月何日の何時頃であったか」位は分かるはずです。ちょうど法然聖人が亡くなられたのは「同じき二年壬申寅月の下旬第五日午時に入滅したまふ」であるという位、詳細に書かれてもよさそうなものです。ところがそうは書かれていません。蓮如上人に至っては獲信された年さえ書かれていません。
信の一念の自覚がハッキリ有ろうと無かろうと、それはどちらでもよいことです。過去の何かハッキリした体験が有るか無いかは問題ではなく、現在弥陀の仰せに疑いないかが問題であることを知って頂きたいと思います。
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わからない
・まかせるの定義は?
・氏ぬのはおっかないまま?
・「象業捨てて本願に帰す」とは?それは、自覚とはちがう?
・ハッキリしても、時間は無理っすよね?

「いつとはなーしに助かったと言っとるモンがおるが、そんな寝とぼけたものじゃないんです」と高森会長はよく言ってました。そのため、信の一念とは驚天動地、自覚できない方が無理、というようなすごい体験だと思っていました。
親鸞会が異安心の代表格のように言って排斥していた「米俵信心」も、本人の自覚の上ではあり得るものなんですね。

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絶倫棒様

・「まかせる」については、

http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E3%81%BE%E3%81%8B%E3%81%9B%E3%82%8B&dtype=0&dname=0na&stype=0&pagenum=1&index=17231900

を参照して下さい。往生ほどの一大事は私がどうにかできる問題ではないと計らいを離れ、ひとえに阿弥陀仏に委ねることです。「助けるぞ」を聞くところに計らいが取れ、本願力に帰するのです。

・死ぬのを怖いと思う人は怖いでしょう。

・往生行にあらざる諸善、それをあて力にする自力の計らいが取れて、念仏一行を往生行に選び取られた本願にひとえに帰依したことです。他力の信心を顕されたもので、もちろんその自覚なしにこのような文章は書けないでしょう。

・信の一念は時刻にかからぬものですから無理ですね。


広島の名無し様

私もそう思っていました。しかし、例えば地震やがけ崩れなどで生き埋めになって意識を失ってしまった人がレスキュー隊に助け出され、病院のベッドで目ざめたとしましょう。その人は、助け出された瞬間は自覚していなくても、「助けられた」ということは分かりますね。助けられた瞬間の自覚も大事かも知れませんが、今助かっているということが大事なのです。
米俵安心は、米を疑情に例えるのはよくありませんが、本人が気づかない内に弥陀に摂取されることがあるというのはその通りでしょう。

No title

レスキュー隊によって救出された時、の譬え、よく分かりました。ありがとうございます。今、本願に疑いあるかないか、が大事なんですね。

>広島の名無し様

その通りです。会員の皆さんには善悪に囚われるのではなく、本願(18願)一つを聞いて疑いない身になって頂きたいですね。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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