蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(50)

 それ、一切の女人の身は、人しれず罪のふかきこと、上臈にも下主にもよらぬあさましき身なりとおもふべし。それにつきては、なにとやうに弥陀を信ずべきぞといふに、なにのわづらひもなく、阿弥陀如来をひしとたのみまゐらせて、今度の一大事の後生たすけたまへと申さん女人をば、あやまたずたすけたまふべし。

さてわが身の罪のふかきことをばうちすてて、弥陀にまかせまゐらせて、ただ一心に弥陀如来後生たすけたまへとたのみまうさば、その身をよくしろしめして、たすけたまふべきこと疑あるべからず。たとへば十人ありとも百人ありとも、みなことごとく極楽に往生すべきこと、さらにその疑ふこころつゆほどももつべからず。

かやうに信ぜん女人は浄土に生るべし。かくのごとくやすきことをいままで信じたてまつらざることのあさましさよとおもひて、なほなほふかく弥陀如来をたのみたてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章5帖目14通)



このお手紙でも蓮如上人は女性に対して法を説かれています。ただ、男だとか女だとかは関係なく、末代の私達は罪深い存在です。なので、このお手紙も「この私」一人のためと読むことにします。
さて、罪深くあさましい身である私達は、どのように弥陀を信じて後生助かるのでしょうか。それについては、

なにのわづらひもなく、阿弥陀如来をひしとたのみまゐらせて、今度の一大事の後生たすけたまへと申さん女人をば、あやまたずたすけたまふべし。

と教えられています。私達の方からは造作を要しませんので「なにのわづらひもなく」です。善をして善のできない者と知らされねばならないとか、眠れなくなるほど後生に驚き立たねばならないとか、そういった条件を阿弥陀仏は課されてはおりません。
次に、ひとえに弥陀におまかせするよりありませんから、「阿弥陀如来をひしとたのみまゐらせて」と仰せです。余仏を念ぜず、余善にうつらず、阿弥陀仏のみを信じよということです。獲信・往生に関して、余仏は早々に捨てるが、善は獲信のその時までやらねばならないという珍説は存在しません。そういうすがたを「定散の自心に迷」うているというのです。それではいつまでも阿弥陀如来をひしとたのむことはできません。
「今度の一大事の後生たすけたまへと申さん女人をば」ですが、これはいつも書いている通り、こちらが「後生助けて下さい」とお願いする祈願請求の意味ではありません。私達が「後生助かりたい」と願うはるか昔から「お前達の後生助けるぞ」と願われている、その阿弥陀仏の仰せを計らいなく聞き、「では仰せの通りに後生お助け下さい」と受け入れる許諾の意味です。本願を信じ念仏するまでの私もそうでしたが、自力執心の人はここが逆さまなのです。「助けるぞ」を聞く以外に信心はないのに、聞くには「どうしたら」「どうすれば」ばかり考えて阿弥陀さまの願いを聞こうとしないのです。私達にどうしたらもこうしたらもありません。そんな方法論はありません。阿弥陀さまの一方的なお救いに、こちらは手垢をつけず、その願いを受け入れる、仰せの通りに聞くよりありません。それで阿弥陀さまは「よう聞いてくれた」と深くおよろこびになり、その御身より八万四千の大いなる光明を放って念仏の行者を「あやまたずたすけたまふべし」、間違いなく摂取して下さるのです。

さてわが身の罪のふかきことをばうちすてて、弥陀にまかせまゐらせて、ただ一心に弥陀如来後生たすけたまへとたのみまうさば、その身をよくしろしめして、たすけたまふべきこと疑あるべからず。

「私は罪深いから助からないのでは?」と自分の罪悪の深さには心をかけず、「どんなに罪の深い者でも必ず助ける」と誓われている阿弥陀仏におまかせするばかりです。自己ばかり見ていても救いはありません。その自己を「必ず助ける」本願がなければ助かる道理がありません。「ただ一心に弥陀如来後生たすけたまへとたのみまうさば」は先ほど述べた通り、阿弥陀仏の「後生助けるぞ」の親心をそのままお受けするということです。そのように弥陀をたのむ人を阿弥陀仏がお助け下さることは更々疑いないことです。

かやうに信ぜん女人は浄土に生るべし。かくのごとくやすきことをいままで信じたてまつらざることのあさましさよとおもひて、なほなほふかく弥陀如来をたのみたてまつるべきものなり。

「このように信じる人は浄土に生まれることでしょう。このような易しいことを今まで信じなかったことの情けなさよと思い、なおなお深く弥陀如来をたのみなさい」と最後に仰っておられます。

やはりこのお手紙にも親鸞会流「三願転入の教え」、横の道に該当する教え、一切衆生必堕無間という教え、善知識の指示に無条件服従せよという教え、宿善を求めよ・厚くせよという教えなど、親鸞会で説かれる珍らしき法はありません。因果の道理を強調した上に獲信目指して廃悪修善をせよとか、必堕無間の自己に驚き立たねばならないとか、そういった教えもありません。
ちなみに親鸞会では、蓮如上人が「雑行雑修自力の心をふり捨てて」等と仰っているのを三願転入の教えだなどと言っていますが、こじつけも甚だしいです。「雑行」とは2帖目9通にあるように自余の万善万行のことですが、「阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへる」ですから弥陀をたのむについて真宗では嫌われている行なのです。その嫌われている行について、上人は常に「雑行をすてて」とこそ教えられ、「雑行をさせ」とは一言も仰っていません。獲信・往生のために上人が自余の万善万行(雑行)を勧められた文証などあるはずがないのです。この誤りについては『飛雲』 『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り27にて破られていますのでご覧下さい。

御文章を拝読すればするほど、親鸞会は蓮如上人の教えとは無関係な団体であることが知らされるばかりです。蓮如上人の教えと無関係ということは、すなわち親鸞聖人の教えとも無関係ということですから、早々に「浄土真宗」「親鸞」の看板は降ろして、高森教とでも名乗るべきでしょう。正しい親鸞聖人の教えが聞きたいなら、このような間違った教えを信じていたことの情けなさよと思って、即刻離れることをお勧めします。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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