往生のためには「善を捨てよ」ですが、生活ためには「善を捨てよ」ではダメだゾウ(1)

NHK教育番組「みぃつけた!」の中に、「すわるぞう」というコーナーがあります。子供達がイス取りゲームをするのですが、その後にマッチョなおじさんがイス取りゲームの解説をしています。正確には分かりませんが、

えー、ご覧のように、イス取りゲームでは人の数に対してイスの数が足りません。だから、イスに座るのは早い者勝ちということです。しかし、電車やバスでは、人に席を譲らないとダメだゾウ。

というような解説だったと思います。同じ「座る」という行為でも、状況に応じて我先にという場合と、相手に譲るべき場合とがあるわけですね。これでふと思ったのが、

えー、ご覧のように、阿弥陀仏の光明は雑行を修める行者を照らし摂めては下さいません。だから、「雑行を捨てよ」と言われます。往生・獲信のためには善を捨てよということです。しかし、生活のためには、善を捨てたらダメだゾウ。

ということです。仏教には様々な法門があり、自力諸善を積んでさとりを開こうとする聖道門、また浄土門内でも自力諸善によって浄土に往生しようとする要門、自力念仏によって浄土に往生しようとする真門といった自力の教えがあります。ここでは雑行について述べることにしますが、親鸞聖人は「化身土文類」にて、

・おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚(道綽)は「万行」(安楽集・下)といひ、導和尚(善導)は「雑行」(散善義)と称す。感禅師(懐感)は「諸行」(群疑論)といへり。信和尚(源信)は感師により、空聖人(源空)は導和尚によりたまふ。経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

と仰っています。要門の教えの行体である自力諸善は雑行と言われ、阿弥陀仏の光明は、雑行を修める行者を照らし摂めては下さいません。ですから、往生行としては善は雑行と名づけて嫌われているわけです。なので、獲信・往生に関して善を勧めるのは、イコール雑行を勧めることですから、真宗の教えとは真逆であるということです。
また、善に対する言葉が悪ですが、阿弥陀仏はどのような悪人であってもお助け下さいます。悪は往生の妨げとはならないのです。このように、我々の善悪は報土往生の得ともならず、失ともなりません。

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。(口伝鈔)

ところが、こうした善もほしからず、悪もおそれずという本願を得手に解釈して、どのような悪を犯しても構わない、悪をやればやるだけよいのだと触れ回る輩が法然・親鸞聖人時代から現れました。こんな輩が増えれば、社会にとっては害悪以外の何者でもありません。親鸞聖人もこうした邪義の是正に、関東へ幾度も手紙を出されています。(つづく)
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

>秘密コメント様

おそらく会員さんは仏教で言う善というものがどういうものか分かっていないのでしょう。仏教で善とはさとりを開き、自他共に安らぎをもたらす行のことです。そのためには嘘をついてもよい、大学側に心配や迷惑をかけてもよい、深夜に押し掛けたり職場に押し掛けたりしても仕方ない、というような理屈で相手に不快感や苦痛を与えるのなら、それは善とは言いません。

また、会員さんは往生のためというより必堕無間から逃れるために活動していると思います。よしんば信心決定、絶対の幸福というこの世のことだけで、往生成仏はグリコのおまけ位にしか考えていないというのが実態でしょう。

仰る通り、我々のやる善では生死を離れ、さとりの領域に達することはできません。そして、会の勧める活動は布施の本旨から外れています。外道への献金と勧誘は善とは言いませんからね。
まぁ、勤行や早寝早起き、挨拶、掃除なども勧められてはいますが、勤行は信仰(?)が進むための行としてとらえられて自力修行のような位置づけですし、日常生活レベルの、六度万行と比較したら圧倒的に程度の低い善をいくらしていたところで往生・獲信に関しては何ともなりません。それにそういった善で助かろう、あるいは横の道を進もうと考えているなら雑行ですから、捨てよと言われる雑行を積極的にしていることになります。

お気持ちはとてもよく分かります。会の実態を知れば知るほど、吐き気こそすれ気持ちの良いものではありません。ただ、親鸞聖人の教えに遇えたことに関してはよかったと思います。どうぞ「必ず助ける」本願に後生をゆだね、往生成仏の身になって下さい。

矛盾だらけを指摘しても、仔牛ぶってる人(学位ないのに)とセンパイぶってる人らは、ごまかしてたな

一念の意味がちんぷんになったゆ 

>絶倫棒様

会員さんは高森会長の説が正しいと信じ込み、それを基準としていますから、教義について矛盾や指摘を受けた場合は高森会長の説を守ろうという立場で話をします。私もかつてはそうでした。

一念については、まず

・それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。(信文類)

と解釈され、信心が開けおこる最初のときであると言われています。その後に、

・「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。(同)

と顕かにされ、二心のない他力信心、浄土に生まれるたねであると教えられます。

親鸞会では「一念で救う」と言い、主に時剋のことを指して使われます。「一念」とは言葉では表せない「いま」であると教えられます。そう言いながら「いま」助かっている者がいない、「いま」の救いを求めて延々と求道しなければならないとは、甚だしい矛盾です。果ては二十年や三十年で獲られるものではないと言いますから、一体どうなっているんだという話です。こうは言っても高森先生信心の人には中々通用しないのです。困ったものですね。

高●の話ではなく、弥陀の本願をきくべさでしょ?

横軸が「世界線」ならまだわかるがね 

>絶倫棒様

そうです。絶倫棒さんも聞いて下さいねi-179 本願を信じ念仏すれば、浄土に生まれるのですよi-277

横の線が「世界線」とは???
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード