「信心正因称名報恩」を誤解して念仏を軽視しているばかりか、「称名正因」でもない「雑行正因」となって完全に真宗教義を破壊している団体

信心正因とは、阿弥陀仏の本願のお救いに任せる一つで、迷いを離れて悟りの世界に入らせていただくということです。

・涅槃の真因は唯信心をもってす。(信文類)
・「是名正定之業順彼仏願故」といふは、弘誓を信ずるを報土の業因と定まるを正定の業となづくといふ、仏の願にしたがふがゆゑにと申す文なり。(一念多念証文)
・不思議の仏智を信ずるを 報土の因としたまへり
信心の正因うることは かたきがなかになほかたし(正像末和讃)


などの御文から、私達が報土に往生する因は信心であると伺うことができます。

称名報恩とは、信心が正因であるのに対して、称名は正因ではなくして報恩行であるということをあらわします。

・弥陀仏の本願を憶念すれば 自然に即のとき必定に入る
 唯よく常に如来の号を称して 大悲弘誓の恩を報ずべし(行文類)
・そのうへの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。(御文章5帖目10通)


このように浄土真宗の法義は「信心正因称名報恩」と言われるのですが、親鸞会のように

※……浄土真宗の安心は根本から転覆するのです。なぜなら、真宗の教義の骨格は、「信心正因、称名報恩」であり、信心一つで助かるのであって、称名念仏は、すべて信後報謝に限るからです。(こんなことが知りたい1 p.126~p.127)

としてしまうとどうでしょう。私は、とにかく信心が大事と信心にばかり目が行って、信心獲得するにはどうすればよいのかという方法論に迷っていました。念仏を称えて助かるわけではない、ただのお礼なのだから、と念仏を軽視していました。信心と念仏は別のことのように思い、その関係が分かりませんでした。信心を獲るのと念仏は何の関係もないと思っていました。
信心と言っても、真宗の信心は念仏の信心です。念仏(南無阿弥陀仏)のいわれをよく心得たことを信心獲得というのですから、信心と念仏は別のことではありません。信心の体が念仏(南無阿弥陀仏)です。この信心一つで往生が決定するから、「信心正因」と言われます。だから念仏は無意味なものでも、ただのお礼でもありません。『やさしい安心論題の話』(灘本愛慈著)には、

「乃至十念」の称名は、その体徳からいえば、名号の全現ですから一声一声が正定業(まさしく往生の決定する業因)であります。しかし、これを称える行者の用心をいえば、ご恩尊や有難やと感謝する思いから称える報恩の念仏であります。けれども、これを誓われた阿弥陀仏の思召しは、報恩を求めるためではありません。信心の行者の生活の中に、嬉しい時も悲しい時も、何ともない時でも、折にふれて思い出しては仏のみ名を称えさせてくださるのであります。まことに「大慈大悲のきわまりなきこと」を感佩せずにはおれません。

と書かれています。仏の本願によるが故に、一声一声が正定業なのです。
「称名報恩」とは、行者の心意気を表されているのです。真宗の称名は、念仏を自己の善根としてとらえ、その功徳によって往生しようという第20願の念仏とは違います。不思議の仏智を計らいなく聞き受け、行者の計らいのとれた第18願の念仏です。そこには、念仏を称えて助かろうという心持ちはありません。ではどういう心持ちで念仏すればいいのかと言えば、自身往生の業という気持ちではなく報恩の気持ちで念仏しなさいと蓮如上人は教えられているのです。

信心治定してののちには、自身の往生極楽のためとこころえて念仏申し候ふべきか、また仏恩報謝のためとこころうべきや、いまだそのこころを得ず候ふ。
答へていはく、この不審また肝要とこそおぼえ候へ。そのゆゑは、一念の信心発得以後の念仏をば、自身往生の業とはおもふべからず、ただひとへに仏恩報謝のためとこころえらるべきものなり。(御文章1帖目4通)


念仏は「南無(我をたのめ)阿弥陀仏(必ず救う)」という大悲招喚の勅命であり、そのおいわれを聞いて疑いのないのが信心です。称名は仏徳から言えば至易最勝の妙行、浄土往生の正しき行業ですが、行者の心持ちから言えば報恩ということです。また念仏を称えるとは、「必ず救うぞ」の弥陀の仰せを聞いているのと同じことですから、聴聞でもあるのです。
ですから真宗においては念仏が勧められるわけですが、衆生の側で「念仏によって助かろう、助けて頂こう」という計らいがあって称えているなら報土往生は不定です。この仏智疑惑を聖人は大変厳しく誡められています。

ところが親鸞会は念仏を積極的に勧めません。念仏を勧めるのは第20願であってダメだと、

故に、信前の称名念仏をはげむと信心が頂けると勧めるのは、絶対に間違っています。それは第二十願に当る浄土宗の教えです。(こんなことが知りたい1 p.128)

というように言っていました。なら信前の諸善をはげむと信心が頂けると勧めるのは第19願の教えであって、なおさらダメだということになります。(さすがにこのようにハッキリとは言っておりませんが、善をして信仰が進まないと助からないかように説くので、実態は「信前の諸善をはげむと信心が頂ける」と勧めているのと同じことです。)しかし「善」の勧めがなければ献金や勧誘を積極的に勧めることはできませんから、親鸞会では宿善を求めよ・厚くせよと教え、現在は「三願転入の教え」と言いだして19願を勧めています。そして相変わらず重視するのは阿弥陀仏が本願において選捨された粗行である自力諸行で、選取された妙行である念仏は諸善程は勧められません。

・他力真実の信心をえてのちに真実報土には往生をとぐるなり。みづからの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては実報土には生れずとなり。(唯信鈔文意)
・ 「随縁雑善恐難生」といふは、「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなはち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。「恐」はおそるといふ、真の報土に雑善・自力の善生るといふことをおそるるなり。「難生」は生れがたしとなり。(同)
・雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。(同)


これらの文証から、真宗には八万四千の法門、つまり浄土方便の善の勧めがないことは明らかです。それでは実報土に生まれることはないと嫌われているからです。この、往生のためには「捨てよ」と教えられる浄土方便の善、すなわち雑行を、親鸞会は「善をしなければ信仰は進みません」と言って勧めているのですから、真宗と親鸞会教義は真逆です。
「善をしなければ信仰は進みません」というのは、信仰が進まなかったら助からないということです。信仰が進まなくても助かるなら、善をして信仰を進める意味がありません。そして信仰が進んだ先に会員お目当ての救いがあるように説くのですから、雑行が弥陀に救われる正しき因だと教えているようなものです。親鸞会では「信心正因称名報恩」を誤解して念仏を軽視しているばかりか、「称名正因」でもない「雑行正因」となって完全に真宗教義を破壊しています。会員の皆さんには、こんなトンデモ教義を聞かされていることを知り、会を離れて真宗の信心に基づいて頂くと共に、今後騙される人が一人でも減るように呼びかけていって頂きたいと思います。


【参照】
『21世紀の浄土真宗を考える会』安心論題講述(大江淳誠著)より 十念誓意
『21世紀の浄土真宗を考える会』安心論題講述(大江淳誠著)より 称名報恩
安心論題/称名報恩
安心論題/信心正因
安心論題/十念誓意

※ちなみにこの部分の出拠元は、以下の通りです。
……真宗の安心は根本から転覆される。信心正因、称名報恩が真宗の本旨で、念仏はすべて信後報謝の念仏に限るのであるが……(伊藤康善著『安心調べ』p.141)
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むずかしひ

ゴンギョウはいいの? 

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雑行正因会長報恩

S会の会合では阿弥陀さまのお名前は言われずに会長の名前が連呼されますね。会長の名前が出た後には決まって「善のすすめ」と銘打った金集め、人集めのすすめがなされます。

阿弥陀さまのお名前も聞こえず、南無阿弥陀仏のいわれもないこの集団の教義は、
「雑行正因 会長報恩」

とでも名付けるのが適切ではないかと思われます。

コメント返信

絶倫棒様

ぜひ勤行して下さいi-278


秘密コメント様

私も先輩から聞いたことがあります。
教えが変化してきているというよりも、その場その場でころころ教えを変えていますね。本人も何を言っているのか分かっていないのだと思います。
仏教は対機説法だと言いながら19願の話しかしないのは、会員は誰も20願まで進んでいないということでしょう。これではいつになったら救われるのかと、無常を見つめて真剣に疑問を起こしてほしいものです。
その通り、教義上は「雑行正因」ですが、実態は「諸悪正因」です。献金と勧誘をやればやるだけよいという造悪無碍の邪義に陥っています。


チョイバルサン様

確かにそうですね。弁論大会では決まって「高森センセー、ありがとーごさいましたー!」です。阿弥陀仏の御恩が叫ばれないおかしな団体です。

No title

「宇治金時」氏が 体調不良のために
療養休暇されています。
親鸞会の教義 会長の言葉 組織の在り方 現状の
自分の生活 立場 環境 なんの疑問も持たないのでしょうか。

因果の道理 と教え込まれて 親鸞会が真実伝える
絶対正しい宗教団体と信じているのなら 自分の受けた
結果は どのように理解するのか。
なぜ 退会する人が後を絶たないのか なぜ自分は救われないのか
なぜ講師で救われる人がいないのか。
療養されている間ゆっくり考えて頂きたいですね。

多分、講師仲間や 上司 局長 会長からは 形だけの
お見舞いが 届けば良い方でしょう。
親鸞会の実態に気付いて頂きたいです。

>ため息様

そうでしたか…療養中も事務的作業などされるかと思いますが、今日終わる命なの
に親鸞会の教えで自分は助かるのか、考えて頂きたいですよね。

称名念仏の意味

念仏は私の上に如来の働きが表れている証です。
私、親鸞会のお話を聞きましたが念仏をいただきましょうと一度も言ったことがないですね。念仏軽視です。
乃至十念の意味がまったく分かっていませんね

>おか様

本願で選択された、至って易く最も勝れた妙行である念仏はほとんど勧めないのに、本願で選捨された、難行であり劣行である諸善(献金、勧誘)を勧めているおかしな団体です。
乃至十念は、お礼の念仏程度にしか知らないことでしょう。私もまだ勉強中ですが、会員の教学力はなきに等しいです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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