蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(57)

 当流の安心といふは、なにのやうもなく、もろもろの雑行雑修のこころをすてて、わが身はいかなる罪業ふかくとも、それをば仏にまかせまゐらせて、ただ一心に阿弥陀如来を一念にふかくたのみまゐらせて、御たすけ候へと申さん衆生をば、十人は十人百人は百人ながらことごとくたすけたまふべし。これさらに疑ふこころつゆほどもあるべからず。かやうに信ずる機を安心をよく決定せしめたる人とはいふなり。このこころをこそ経釈の明文には「一念発起住正定聚」とも「平生業成の行人」ともいふなり。さればただ弥陀仏を一念にふかくたのみたてまつること肝要なりとこころうべし。このほかには、弥陀如来のわれらをやすくたすけまします御恩のふかきことをおもひて、行住坐臥につねに念仏を申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章5帖目21通)


当流の安心、浄土真宗の信心というのは、何の造作も要らず、もろもろの雑行雑修の心を捨てて、我が身はどれほど罪業が深くてもそれは阿弥陀様におまかせし、ただ一心に阿弥陀如来を一念に深くたのみ、先手の方に対して「仰せの通りお助け下さい」と往生をゆだねた者を、十人いたら十人、百人いたら百人ともことごとくお助け下さいます。こうした阿弥陀如来のお救いを疑う心は露ほどもあってはなりません。このように信じる人を、安心をよく決定した人というのです。このこころを経典や釈文には「一念発起住正定聚」とも「平生業成の行人」とも言われています。ですから、ただ阿弥陀仏を一念に深くたのむことが肝要であると心得なさい。この他には、弥陀如来が私達を易くお助け下さる御恩の深いことを思って、時機諸縁を嫌わずつねに念仏を申しなさい。
蓮如上人はこう仰せられて、ひとえに弥陀に往生をまかせなさいと一途に教えられています。それには19願の善をしなさいとか、必ず通らねばならぬ道程があるとか、必堕無間の自己が知らされ後生に驚き立たねばならないとか、因果の道理が徹底されねばならないとか、そういったこざかしい理論は一切教えられていません。往生・獲信のためには必要ないからです。弥陀をたのむについて不必要だからです。
なお親鸞会では、「もろもろの雑行雑修のこころをすてて」等のお言葉を「19願、20願の行を勧められたお言葉だ」「三願転入の御教導だ」などと言いますが、「すてて」とこそ説かれ「まずやって」「やってからすてて」などとはどこにも教えられていません。得意のナイフや煙草の喩えは『飛雲』 『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り27にある通り詭弁であり、聖教上の根拠はありません。また、雑行ができるなら私達は善人であり、逆謗の屍ではありません。雑行といっても諸善万行ですから。全ての人が逆謗の屍ならば雑行をしている人は皆無です。雑行をしている人に「雑行をすてよ」と言われているという高森会長のオコトバは、全ての人を逆謗の屍とすると意味を失うのです。
未だにこんな不要でデタラメなことばかり聞かされ、往生・獲信の障害にしかならないことをさせられ続けている人々は実に哀れです。早く18願の救いを聞いて直ちに本願を信じ念仏して頂きたいと願って止みません。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

善をしても、象毒の善しかできないってのは?

○森教だと、善って言っても往生に関係ないトコの話してない? 

>絶倫棒様

雑毒の善というのは、『観無量寿経』の三心の内、善導大師が至誠心を解釈された中に出てきます。親鸞聖人は教行証文類や愚禿鈔などに引文しておられますので、その一つを挙げておきます。

『経』(観経)にのたまはく、〈一には至誠心〉。至とは真なり、誠とは実なり。一切衆生、身口意業に修するところの解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり。貪瞋・邪偽・奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善となす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時、急に走め急になすこと、頭燃を灸ふがごとくするは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲ふは、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のなかになしたまひしによりてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なりと。 (愚禿鈔)

仏の真実の業に対して、煩悩具足の人間が三業で為すものは、どれほど懸命に努めようとも雑毒の善、虚仮の行であるというのです。なので、我々煩悩具足の人間が「善をしても、雑毒の善しかできない」というのは合っています。
この雑毒の善を回向して弥陀の浄土に往生するのは不可能です。それで弥陀が私達を救うために、仏と成るべき因を南無阿弥陀仏として成就し、私達に与えて下さるのです。

さて、親鸞会の場合は私達は逆謗の屍とか、逆謗闡提であると言います。これは平生に悪しか行わず、しかも五逆、謗法、闡提という極めて重い罪を造っている者だということです。もし雑毒の善ができるとするなら、私達は善人です。逆謗の屍ではありません。また、逆謗の屍だとするなら、そんな極重の悪人には他の方便なくひとえに弥陀を称するより助かる道はないと教えられています。往生・獲信のための善の勧めはありません。親鸞会は前提が間違っていますので、すぐに誤りがぽこぽこ出てきてしまうのです。

善のできない自分と知らされるために善をする、後生の一大事に驚くために善をする、というものですから、往生に関係ないトコの話ですね。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード