「蓮如上人と三願の教示」の誤り

当ブログでは『御文章』を1通1通挙げて、蓮如上人が教えられていること、教えられていないことを見てきました。詳しくは蓮如上人と三願転入にどのような関係が??のカテゴリを参照して下さい。それを踏まえて、親鸞会発行『顕真7月号』に載っている「疑難と答え4」を見てみたいと思います。


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疑難と答え4
蓮如上人と三願の教示

(疑難)
「蓮如上人には、三願転入の教えがないのではないか」

(答え)
 蓮如上人も、弥陀の十八・十九・二十の三願を、こう説かれている。

 弥陀に救われる(信心獲得)までの道程で、弥陀の救いを求めて行っている諸善(十九願)を「雑行」とし、名号を称える功徳(二十願)などで助かろうとしている五正行を「雑修」と説かれている。
 それらの雑行(十九願)や雑修(二十願)に共通するのが、自力の心(十八願を疑っている心)であるから、『御文章』には、
【もろもろの雑行・雑修・自力の心をふりすてて】
無碍の一道(十八願)まで進みなさいと、常に教導されているのが、蓮如上人である。

 文証は多数に上るが、一、二だけを挙げておこう。

【諸の雑行・雑修・自力なんどいう悪き心をふりすてて、一心に深く弥陀に帰する心の疑なきを真実信心とは申すなり】(御文章)
【もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として―乃至―往生は治低せしめたまう】(御文章)
【もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて、一心に「阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候え」とたのみ申して候】
                   (領解文)

 これみな蓮如上人の、三願転入のご教導でないものはないのである。

 これらのご文からも分かるように、雑行・雑修・自力の心とは何かを心得ている者に、蓮如上人は仰っているのである。
 ナイフという物を知らない者に、ナイフを捨てよと言ってもナンセンスになろう。
 雑行の意味を知らない者に、雑行を捨てよと言われるはずがなかろう。

 また、煙草をのまない人に、煙草の害毒を説く人がいないように、雑行をやってもいない者に”雑行を振り捨てよ”と言われるはずがない。
 当然ながら「雑行を捨てよ」と言われるのは、現に「雑行」を行っている人にである。

 そもそも、雑行・雑修・自力の心と言われるものは、弥陀の十八・十九・二十の三願からしか現れないものなのだ。

 後生の一大事に驚き、弥陀の救いを求めた時、「もろもろの善をせよ、必ず救う」と誓われた弥陀の十九願に従い、実践する諸善を「雑行」というのだから、「雑行」は弥陀の十九願からしか現れないのである。

 「雑修」もまた、弥陀が「名号を称える者を救う」と誓われている二十願に従い、助かろうとして称える念仏(名号)などをいう。
「朝晩のお勤めは欠かさないし、弥陀一仏を礼拝しているから」
「仏花やお香もキチンと献げているし、お供物も絶えずしているから」
「最も功徳のあるお念仏を、これだけ称えているのだから、助けてくださるだろう」
と思って称えている念仏などを「雑修」というのであるから、「雑修」は、二十願からしか生まれてこないものなのである。

「自力の心」は、弥陀が
「どんな人も、われをたのめ、そのまま救う」
と誓われている十八願を疑っている心だから、当然、十八願からしか出てこない心である。
 この「自力の心」を振り捨てたら、昿劫流転の本性が現れるのだ。
 このように、弥陀の十八・十九・二十願の三願よりしか現れぬのが、「雑行雑修自力の心」だから、十九願の「雑行」も知らず、二十願の「雑修」も分からず、十八願を疑う「自力の心」もない者に「雑行・雑修・自力の心」を“振り捨てよ”と、蓮如上人が言われるはずがないのである。

 十九願の「雑行」をやり、二十願の「雑修」にすがり、十八願の疑惑心(自力の心)が現れるまで、信仰の進んでいる人に「雑行雑修自力の心」を“振り捨てよ”と仰っているのである。

 蓮如上人の「雑行雑修自力の心を振り捨てて、一心に弥陀に帰命せよ」とは、まことに弥陀の三願転入の仏意を説き明かして余すところがないことが知られよう。

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『飛雲』 『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り27にて指摘されている通り、読むに堪えないひどい内容です。騙されるのは高森信心の厚い会員や、親鸞会教義しか知らない人位のものでしょう。

まず、「弥陀に救われる(信心獲得)までの道程」など蓮如上人は説かれていないことは散々述べてきた通りです。まずこの前提が間違っていますから、あとは全て戯論、机上の空論です。そんな道程を勝手に捏造し、そこへ会員を当てはめて通らせようとしているから、会員はいつまで経っても信心獲得し、往生一定の身になれないのです。「未信の人はこういう道程を経て信心獲得する」と教える、信前の体験至上主義の集団が親鸞会と言えましょう。もうこれで終わりでもいいのですが、以下は仮に「弥陀に救われる(信心獲得)までの道程」が19願、20願だとして話を続けます。

次に、「もろもろの雑行・雑修・自力の心をふりすてて」などのお言葉が、信心獲得しようとする人に19願、20願の行(親鸞会でいう雑行、雑修)を勧めた「三願転入のご教導」であると主張していますが、高森信心なくしてとてもそうは読めません。「ふりすてて」「なげすてて」と教えられている雑行、雑修を「まずやりなさい」と言っているのですから矛盾も甚だしいです。
この矛盾を、ナイフや煙草の喩えを出して正当化しようとしていますが、この詭弁については『飛雲』にて解説されている通りです。別の喩えを出すと、「横断禁止」という看板は危険を冒してその道を横断している人だけに注意を呼び掛けているものではありません。まだ横断していない人にも呼び掛けられていますね。「遊泳禁止」という看板はその一帯で遊泳している人だけに注意を呼び掛けているものではありません。まだ遊泳していない人にも呼び掛けているのは言うまでもありません。「雑行を捨てよ」も雑行を修めている人だけに言われているのではなく、まだしていない人にも「雑行を修めていては報土往生できませんよ」と誡めているのです。雑行、雑修がすたるまで雑行、雑修をせよと教えられた聖教上の根拠はありません。
また、「雑行・雑修・自力の心とは何かを心得ている者に、蓮如上人は仰っているのである」と書いていますが、蓮如上人当時の人々は雑行・雑修・自力の心とは何かを心得ている者ばかりであったから、蓮如上人は門徒の方々に「雑行・雑修をやりなさい」とは教えられなかったのでしょうか? それに対して平成の今日の人は雑行・雑修・自力の心とは何かがさっぱり分かっていない者ばかりだから、高森会長は「雑行・雑修をやりなさい」と教えているのでしょうか? 蓮如上人は『御文章』には書かれなかったが、説法では高森会長のように「雑行・雑修をやりなさい」と教えられていたのでしょうか? 考えれば考えるほど、蓮如上人と高森会長の間にはとても埋められない隔たりがあります。

「後生の一大事に驚き、弥陀の救いを求めた時」、19願の善をするようになるとのことですが、『安心問答』会長「十方衆生は逆謗だから、逆謗でない者は本願に漏れている」→参詣者「??」(7月28日テレビ座散会より)を読むと全く訳が分かりません。会長は座談会にて、

仏法を一生懸命聞いて無常に驚くようなものならば、闡提でない。聞いたから聞かないからでない。

と話していたようです。ということは、親鸞会で言われる後生の一大事に驚く人もいないということであり、会員はことごとく19願以前の人ばかり、「十九願の「雑行」をやり、二十願の「雑修」にすがり、十八願の疑惑心(自力の心)が現れるまで、信仰の進んでいる人」ではないことになります。中には何十年と聞き求めている人や、とりわけ活動量の多い講師部員もあるわけですが、そんな体たらくでは一体親鸞会の教えで誰が助かるのでしょうね。他にも、

逆謗闡提が全ての人、全ての人を十方衆生という。一人としてそうでない人はいない。

と話していたようですが、仮に逆謗闡提が全ての人とすると、私達は19願の善はできません。雑行はできません。雑行といっても諸善万行ですから、また仮に後生の一大事に驚き、弥陀の救いを求めた人が出てきたにせよ不可能です。19願の善を『観経』では定善、散善で教えられていますが、これらができる人は全て中品下生以上です。できないなら、雑行をしているとは言えません。雑行をしていない者に「雑行を捨てよ」と言われるはずがないのでしょう? 親鸞会の皆さん。

またまた仮に、19願の善を実践できたとしてもです。19願の内容は「至心発願して修諸功徳の善を修めた者の臨終に迎えに現れ、化土往生させる」というものですから、そもそも報土往生を誓われた18願とは求める先、いわゆる目的地が違うのです。親鸞会では「もろもろの善をせよ、必ず救う」などと誤魔化していますが、救うとはあくまでも化土往生です。報土往生ではありません。会員さんは

19願の実践の先に20願へ進み、20願の実践の先に18願に入る

というように三願は一直線上にあるかのように理解しているでしょうが、それは誤解です。会員さんは目的違いの行をやらされようとしていることに気付かねばなりません。

それにまた、仮に19願の善を実践でき、行じていったとしてもです。「19願を出て離れなさい」という教えなしに勝手に20願へと進めるのでしょうか? 親鸞聖人は三願転入の御文にて、

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。(化身土文類)

と、善知識方の教えに従って19願を出たことを告白されています。これは善知識方の教えが、「19願を出て離れなさい」という教えであったことは明らかです。こうした教えによって19願を出て離れ、20願に回入されたのであって、19願を実践していったら20願に回入されたのではありません。19願を実践している限りはいつまでも19願に留まります。それに対して親鸞会では、「19願を出て離れよ」どころか「19願に入りなさい」と教えられるため、いつまでも19願の門前で足止めを食らい、会員さんは一向に18願に転入できないでいるのです。
もし親鸞会の言う通り19願・20願を実践しなければならないのなら、親鸞聖人は至るところに19願の善・20願の念仏を勧めていなければおかしいでしょう。そうしなければ雑行・雑修が分からず、よって捨たることもなく、後生は助からないのですから。ところが、どこにも獲信目指して19願の善を修せよとは教えられていません。それどころか、親鸞会で言う信仰とやらが進んだ先の20願の自力念仏さえも誡めておられます。ましていわんや19願の自力諸善をやです。親鸞聖人がそうですから、蓮如上人が19願の善を勧めておられないのは当たり前の事なのです。

親鸞会の教えは、ありもしない獲信への道程を捏造した教えであり、仮の仮のそのまた仮の上に成り立つ教えであり、善知識方とは真逆の教えであると分かると思います。親鸞聖人、蓮如上人のお勧めは、私達に19願、20願の行を実践せよということではなく、直ちに本願(18願)を信じ念仏せよということであるということを、最後に示してこの記事を終わりたいと思います。

ゆゑに知んぬ、円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なりと。
しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。
穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(総序)

末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。
これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。(5帖目1通)

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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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