Re:名無し様

「善(雑行)をせよ」と言うのなら、「五雑行」は心も行為も間違いどころか、大いに奨励されるべき行ですの記事に、名無し様からコメントを頂きました。有難うございました。

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往生行として、お金を出したり、親鸞会に勧誘したり、掃除したり、節約したりってのが自分にも理解できないですね。
お金を出す行為、勧誘をする行為単体は、弥陀の浄土への往生を願うことと直結してないですし、達成の明確な線引き、どのような善果が期待できるかの具体性もないです。
自然注意が散漫になって、弥陀一仏に向くことができなくなると思います。
これでは、いま善根が貯まってっているんだろうなという満足感の足しにはなっても、
この一座で、あるいはこの一行でって思いがおこらないのではないでしょうか?

自分は善をすることに反対はしないですが、
それで生死の問題を解決しようと設定しているなら、自分でこれなら解決できるという
たしかな手ごたえがあるものをしていくべきだと思います。
そういう努力をしている方こそ、自分の救われ難さが身に染みるのだと思います。
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>往生行として、お金を出したり、親鸞会に勧誘したり、掃除したり、節約したりってのが自分にも理解できないですね。

会員にとっては、無間地獄から逃れるため種々の活動・行為をしていることでしょう。あるいは、善のできない自分と知らされるためにしているという方もあるでしょう。しかし、往生・成仏を願っているという人はどれだけいるかと怪しく思います。高森信心に支配され、往生・成仏を願っていないから、このような活動を一大事の解決のためだと思ってやれるのかも知れません。まず彼らの頭で考えている目的が、仏教の目的と違っているという点から正見していってもらいたいです。


>お金を出す行為、勧誘をする行為単体は、弥陀の浄土への往生を願うことと直結してないですし、達成の明確な線引き、どのような善果が期待できるかの具体性もないです。自然注意が散漫になって、弥陀一仏に向くことができなくなると思います。

同感です。自分も会員であった時、「弥陀の救いを求めているのになぜ弥陀と疎遠な行をやるのかな?」と疑問に思っていました。献金、勧誘、掃除、節約などをしている時、目の前のことに頭がいっぱいで弥陀のことは忘れていました。


>これでは、いま善根が貯まってっているんだろうなという満足感の足しにはなっても、 この一座で、あるいはこの一行でって思いがおこらないのではないでしょうか?

その通りだと思います。いくら活動していっても解決の糸口さえ掴めませんから、「この一座で」という思いは消えていき、どんどん先延ばしになってしまいます。死ぬまでに解決できたら、あるいは遠生の結縁にでもなればいいと思っている会員も少なからずいるでしょう。
また、「この一行で」という思いは毛頭起こりようがありません。沢山の事を勧められますから。親鸞会で勧められる事は置いておいて、念仏一行を一心に称えて頂きたいものです。


>自分は善をすることに反対はしないですが、 それで生死の問題を解決しようと設定しているなら、自分でこれなら解決できるという たしかな手ごたえがあるものをしていくべきだと思います。 そういう努力をしている方こそ、自分の救われ難さが身に染みるのだと思います。

日常生活レベルの善(掃除、挨拶、親切、言行一致等)と、六度万行や定散二善などの仏教で言う善を同列に扱うのがそもそも間違いですよね。『飛雲』兆載永劫の御修行を、金集め・人集めにまで貶める高森会長にあるように、六度万行は法蔵菩薩のなされた行です。定散二善も、例えば散善は「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」(観無量寿経)とあるように行自体は聖道行です。同じ善という名前でも、中身が全く違うことを分かっている会員さんはどれだけあるでしょうか?
また、彼らが善をする目的の一つが「善のできない自分と知らされるため」ですから、最初からそんなことでは到底自分の救われ難さが身に染みることはないでしょう。
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No title

とりあげてもらえたようで、わざわざすみませんというか、ありがとうございます。

日常の善と仏教の善はとくに区別する必要はないんじゃないですかね。
観経の下品では、世福でもいいんでしょう?
でも、真宗では日常の善をこちらから阿弥陀仏に回向しても無駄である旨は
宗祖からしてねんごろに書かれているのだから、しても馬鹿を見るだけですよね。

自分は、法話を聞くという善、勧誘や金を会に対し奉仕することによって成り立つ善
などを阿弥陀仏に回向しようなんてこれっぽっちも思わなかったですね。
回向、あるいは、阿弥陀仏にこれだけしたから助けてというような気持ちは
そもそも潔いと思わなかったですし。
それより生死の問題、自分は死んでも後悔しないという命題に勝手に変換してまし
たが、そのための努力をしてただけでした。
真宗では、仏教においてもそうですが、個人の行うそうした努力は頭から否定して
いますが、自分はものわかりがよくないというか、おつむが弱かったので
命題の設定は納得しても、そのためにこんな善をしろと言われてもよくわかりませんでした。
むしろ、そんなもんで解決するわけないだろって思ってたくらいです。
会をやめたのは当然ですが、
それでも、真宗で、話を聞き続けていた、関わり続けていたのは、やはり生死の解決、
ということが気になっていたからでしょうね。

>名無し様

世福は世俗の善ですが、それと戒福、行福を一緒にしてはならないでしょう。
下品は、平生に善を行わず、悪ばかり犯してきた者です。世福ができるならその人は中品下生以上です。

馬鹿を見るかどうかは分かりませんが、日常の善をこちらから阿弥陀仏に回向しても本願の救いにあずかれないことは確かです。後生助かりたいという思いから、自分のやっていること(善)を往生・獲信の足しにしようとするのは大いにあり得ることですが、名無しさんはそんなことはこれっぽっちも思わなかったとは不思議に思います。

名無しさんはおつむがよかったから退会したのでしょう。生死の問題を、自分のやっているような善や活動で解決するところまでいけるわけがありません。会員さんには真剣に無常や自分の心・活動を見つめていただいて、そんなことで今宵の後生に間に合うのか考えて頂きたいものです。

真宗で話を聞き続けたのは、阿弥陀仏の助けずにはおくまいという本願力がかかっていたとしか思えません。気にならない人は気になりませんが、生死の解決というのはどうしても未来ぶち当たる問題ですからね。ちなみに本願力にはお遇いになりましたか? 
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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