行けども行けどもゴールの見えない、光に向かって進む道

親鸞会で本当の意味での信心の沙汰が行われない理由の記事に名無し様からコメントを頂きました。ありがとうございました。

********************
ある会員が、小杉にゆけば真剣に求めている会員が多くいて、信心の沙汰も深く出来るんだろうと思って転居したら、全然違うと言ってた。信心の沙汰では、会の法話や教学講義などで聞いたこと、会出版の本や顕真、新聞に書いてあることで関連しそうなところを記憶の中から引っ張り出して話す。記憶力の良し悪しの競争になっている。肝心の自分が救われるか否かがまったく問題になってない。特に、射水市太閤山あたりは会の職員が多いから、会の教義から逸脱するようなことは言わない。会員の模範として振る舞う。だから、求道に悩んでいるなどと、自分の心中は絶対言わない。また、会の任務で忙しいようで、そそくさと退散する。救われるには、まず小杉を離れ、会を離れないと。
********************

私もそう思っていましたが、やはり現実は自分の理想とはかけ離れているものです。
親鸞会で長く活動に頑張っている人が求道上の悩みなどを打ち明けたりしたら、心配されたり、後ろ向き発言と捉えられてしまったりしますね。今宵の後生を思えば真っ暗であるのに、今のままで本当に大丈夫なのか、自分は解決ができるのか、その不安を表に出せないのです。
また、こうして本音が言えないことに加え、本音をぶつけたとしても親鸞会には救いの法がないのです。救いの法を心得ている人がいないのです。結局は「もっと光に向かって進まなければ…」「もっと真剣に聞かせて頂きましょう」で終わってしまう。このように言われるのが関の山なので、少しでも頭が働く人は段々本音をぶつけることをしなくなってゆくのです。
行けども行けどもゴールの見えない、光に向かって進む道。私にはそう思えてなりませんでした。「いや、それは貴方の求道姿勢が甘いんだ、そんなことでは光に向かって進んでいるとは言えない」と言われればそうかも知れませんが、今日にも臨終が迫っているかもしれないのにそれではどう頑張っても間に合いません。縁あって、私はそんな道など真宗には存在しないと知ることができましたが、会員の皆さんが知るのはいつになることでしょうか?

親鸞会の教義が正しいと思い込んでいる限りは自力を捨てて他力に帰することはできません。

「もっと光に向かって進まなければ」
「もっと真剣に聴聞しなければ」
「もっと善をして信仰が進まなければ」
「もっと宿善厚くならなければ」


こういう思いこそ自力の計らいです。本当に弥陀の救いを求めるなら、自力の計らいを助長するような教えから離れて、今の救い、本願力回向の救いを説く人から聞いて頂きたいと思います。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

No title

これは講師や親友部などにも言えることでしょうね。
世間ごとにまみれず、仏法一筋の人生を送りたい、そうすれば自分のような気持ちの弱い者でも光に向かって進み、早く横の道を進んでいくことができるはず、という志から講師部や親友部(学顕クラブや安心弁当、農場スタッフも含む)に飛び込む人が多いかと思います。
ところが実際に職員になると、自分の担当任務、雑務、連絡・報告・把握の事務ばかりで、ほとんどパソコンに向かい合っている生活になります。
なぜ生きるの言葉を借りれば彼らは「幸福なのでも不幸なのでもありません。おそらく多忙なのでしょう」。忙しいという字は心を亡くしている状態、とよく学生部会で聞きましたが、最も人間らしい精神を失っているのが親鸞会会員さん達ではないかと思います。なぜ生きるに依存症の話が出てきますが、親鸞会の活動にのめり込んでいなければじっとしてはいられないのです。仏法に関係ないことでも、とにかく親鸞会の活動という名のもとに動き回っていれば、何か未来に明るい兆しが見えてくる、と信じているのです。そして息を切らせながら走るのです。
講師の方で、仮に休みの日があっても何か気持ち悪くて結局活動するだろうね、と語って下さった方がありましたが、まさに活動依存症です。
そういう講師が仏法のことに関する話といっても、基本新規入会者獲得、法話お誘いなどの顕正活動、高森先生のご教導の徹底というものばかりで、「わが信心は如何あるらん」「自身の往生極楽の信心獲得のため」の信心の沙汰はありません。
講師は会員の求道姿勢についてアドバイスはしても、自身の信心を吐露することはできませんし、しません。
会員さんからしたら親鸞会では後ろ向き発言は禁止ですし、疑問をあまり前面に出すと指摘されますから、誰も本音は語らないでしょう。「心底をありのままに語れ」と言う蓮如上人のお言葉通りの信心の沙汰など考えられないことです。だからあれだけ頑張っていた人がなぜ突然…という形での退会が後を絶たないのです。みんな誰にも疑問をぶつけられず去っていくしかないのです。
何事もいかに破邪するかということが先行する親鸞会では、相手の真摯な疑問や悩みもすべて否定し、より光に向かって進みなさいという回答しか持ち合わせていないのです。
何といっても会長自身が信心の沙汰を嫌っているのですから。あなたの(会長の)信心は如何あるらん、などと誰かに聞かれたら困るでしょう。だから信心の沙汰はまずしません。
富山に行ったらできる、行ったからできない、講師になったらできる、講師になったからできないという話ではなく、親鸞会にいる限り信心の沙汰はできないのです。
努めて信心の沙汰をやろうと話しあってみると、実際は会長の話の記憶力復習か、活動の沙汰しか出来ません。お互いの活動姿勢を確認しあって、もっと光に向かって頑張らないと…ということで終わりです。
会員時代信心の沙汰をある講師とよくしてましたが、最終的には「高森先生がお答えくださる」という回答でいつも終わっていました(もちろん会長は何も答えない)。情けないがこれが親鸞会での信心の沙汰らしきことの限界なんです。
まあ私個人は答えられないながらも、一生懸命私の悩みに心を寄せてくださったことは有難いと今でも深く感謝していますが。
親鸞聖人の花びら藤の巻に「阿弥陀仏の救いに諸善万行が間に合うのか、合わないのか、本当に力を尽くしてやってみて、初めてハッキリ知らされるのです」とあるように、とにかく活動に励め、励むために発破をかける手段として信心の沙汰らしきことをやっているにすぎません。

Re:秘密コメント様

仰る通りと思います。会員獲得、組織維持・拡大のためなら手段を選ばないのでしょう。親鸞会では仏様を相手に求道しなければならないと言いますが、果たしてどうなのか自分の胸に問うてもらいたいものです。

真の仏法

久しぶりに投稿させていただきます。
親鸞会の法座には10回以上行かせていただきました。
念仏のことがまったく語られることはありませんでした。
浄土真宗いや親鸞聖人の師、法然上人のお心からすれば念仏以外に
救いの道はありません。
でも念仏を称えたから救われるというものでもありませんが。
親鸞会は根本の念仏を忘れてしまっていますね。

>憲正房様

親鸞会では、念仏は信後報謝以外の意味はありません。だから念仏を軽視し、強調して説かれることはないのです。
なぜ「ただ念仏のみぞまこと」と親鸞聖人が仰ったのか、親鸞会では分からないでしょうね。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード