浄土の法門は、第十八の願をよくよくこころうるのほかにはなきなり

一 仰せにいはく、仏法をばさしよせていへいへと仰せられ候ふ。法敬に対し仰せられ候ふ。信心・安心といへば、愚痴のものは文字もしらぬなり。信心・安心などいへば、別のやうにも思ふなり。ただ凡夫の仏に成ることををしふべし。後生たすけたまへと弥陀をたのめといふべし。なにたる愚痴の衆生なりとも、聞きて信をとるべし。当流には、これよりほかの法門はなきなりと仰せられ候ふ。『安心決定鈔』(本)にいはく、「浄土の法門は、第十八の願をよくよくこころうるのほかにはなきなり」といへり。しかれば、御文には「一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。これすなはち第十八の念仏往生の誓願の意なり」といへり。(御一代記聞書185)

一 前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。『安心決定鈔』のこと、四十余年があひだ御覧候へども、御覧じあかぬと仰せられ候ふ。また、金をほりいだすやうなる聖教なりと仰せられ候ふ。(同249)

一 大坂殿にておのおのへ対せられ仰せられ候ふ。このあひだ申ししことは、『安心決定鈔』のかたはしを仰せられ候ふよしに候ふ。しかれば、当流の義は『安心決定鈔』の義、いよいよ肝要なりと仰せられ候ふと[云々]。(同250)



このように蓮如上人が仰る『安心決定鈔』は、まず次のような書き出しで始まっています。

浄土真宗の行者は、まづ本願のおこりを存知すべきなり。弘誓は四十八なれども、第十八の願を本意とす。余の四十七はこの願を信ぜしめんがためなり。

浄土真宗の者は、まず本願の起こりを知りなさい。阿弥陀仏の本願は四十八の願があるけれども、第十八願がその本意であり、他の四十七の願は、第十八願を信じさせるためである、と教えられています。ですから、浄土真宗の者が聞くべきは第十八願のみです。
ちなみに蓮如上人が『安心決定鈔』(本)にいはく、「浄土の法門は、第十八の願をよくよくこころうるのほかにはなきなり」といへり。と仰っている箇所は、実際の『安心決定鈔』では以下のようになっています。文章には流れがあるので、少し前から引用します。

名体不二の弘願の行なるがゆゑに、名号すなはち正覚の全体なり。正覚の体なるがゆゑに、十方衆生の往生の体なり。往生の体なるがゆゑに、われらが願行ことごとく具足せずといふことなし。
かるがゆゑに「玄義」(玄義分)にいはく、「いまこの『観経』のなかの十声の称仏には、すなはち十願ありて十行具足せり。いかんが具足せる。南無といふはすなはちこれ帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑに、かならず往生を得」といへり。
下品下生の失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり。阿弥陀仏の凡夫の願行を成ぜしいはれを領解するを、三心ともいひ、三信とも説き、信心ともいふなり。阿弥陀仏は凡夫の願行を名に成ぜしゆゑを口業にあらはすを、南無阿弥陀仏といふ。かるがゆゑに領解も機にはとどまらず、領解すれば仏願の体にかへる。名号も機にはとどまらず、となふればやがて弘願にかへる。かるがゆゑに浄土の法門は、第十八の願をよくよくこころうるほかにはなきなり。


十方衆生の往生の体である名号について解説されています。本願の名号は願行具足しているから必ず往生を得るのだ、という善導大師のお言葉を引き、この南無阿弥陀仏の成就したいわれを領解することを信心というのだと教えられています。ですから、浄土の法門は、第十八願をよく心得る他にはないと言われているのです。
にもかかわらず、十九願や二十願を持ち出し、この両願を通らねば、つまり両願の行をやらねば信心獲得できないと教える親鸞会はどのような教えでしょうか? 少なくとも浄土真宗でないことは上に挙げたお言葉で明らかです。蓮如上人が金を掘り出すような聖教だと言われる『安心決定鈔』のどこを読んでも、親鸞会流三願転入の教えなどありません。会員の皆さんには是非とも高森フィルターを外し、直にお聖教のお言葉に触れて頂きたいと思います。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

秘密コメント様

会長の信心のほどは定かではありませんが、真宗を私利私欲を満たす道具としていることは明らかでしょう。
なお、『聖典セミナー 歎異抄』(梯實圓著)を読んでみますと、耳四郎は泥棒稼業から足を洗うのに大分時間がかかったようです。本願を信じ念仏する身となっても、悪人が善人になるわけではありません。性格や能力、知能なども信前と信後で変わらず、何かのきっかけや、自身の努力なくして修正も改善も進歩もありません。彼は獲信していたとしても信後のお育てがなかったか、あるいはよほど煩悩が盛んだったのかと思われます。彼の行動は、造悪無碍の邪義のお手本のような振る舞いですね。

No title

会長の信心は確かに他人には判定はできません。しかしながら、御一代記聞書を拝読すると、その生き様において、蓮如上人と会長の違いが鮮明になります。
親鸞会が出版しているのではなく、314条すべて目を通してください。
現代語訳もあります。
http://labo.wikidharma.org/index.php/御一代記聞書%28現代語%29#no1

Re: No title

仰る通りです。言葉の上では、蓮如上人も高森会長も同じく「信心決定あれかし」なのですが、高森会長には会員や全ての人々に「信心決定あれかし」という心は見られません。それが生き様にも表れ、両者の違いを見せています。追々記事にして取り上げてみたいと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード