罪の沙汰無益なり。たのむ衆生を本とたすけたまふことなり

親鸞会では罪悪を突き詰める話が多くなされます。そればかりだと言っても過言ではありません。
それは、聞く者を「死ねば必ず無間地獄へ堕ちる」と恐怖させ、これを解決しようという名目で入会させて活動員として働いてもらうため、そして活動の原動力に欠かせないからです。どのような話がなされるかは、

このようにして親鸞会教義が徹底されました(3)
このようにして親鸞会教義が徹底されました(4)
このようにして親鸞会教義が徹底されました(5)
このようにして親鸞会教義が徹底されました(6)

に詳しく書きましたので参照して下さい。特に学友部出身の会員には耳タコの話です。


ところが、蓮如上人はこのような罪悪の沙汰よりも信心の沙汰(信心を得ているか得ていないか)をしなさい、更には罪悪の沙汰は無益、つまり無意味であるとも仰っています。

(35)
一 順誓申しあげられ候ふ。一念発起のところにて、罪みな消滅して正定聚不退の位に定まると、御文にあそばされたり。しかるに罪はいのちのあるあ ひだ、罪もあるべしと仰せ候ふ。御文と別にきこえまうし候ふやと、申しあげ候ふとき、仰せに、一念のところにて罪みな消えてとあるは、一念の信力にて往生定まるときは、罪はさはりともならず、されば無き分なり。命の娑婆にあらんかぎりは、罪は尽きざるなり。順誓は、はや悟りて罪はなきかや。聖教には「一念のところにて罪消えて」とあるなりと仰せられ候ふ。罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。罪消えて御たすけあらんとも、罪消えずして御たすけあるべしとも、弥陀の御はからひなり、われとしてはからふべからず。ただ信心肝要なり と、くれぐれ仰せられ候ふなり。(御一代記聞書)

【現代語訳】
 順誓が蓮如上人に、「信心がおこったそのとき、罪がすべて消えて往生成仏すべき身に定まると、上人は御文章にお示しになっておられます。けれども、ただいま上人は、命のある限り罪はなくならないと仰せになりました。御文章のお示しとは違うように聞こえますが、どのように受けとめたらよいのでしょうか」と申しあげました。
 すると上人は、「信心がおこったそのとき、罪がすべてみな消えるというのは、信心の力によって、往生が定まったときには罪があっても往生のさまたげとならないのであり、だから、罪はないのと同じだという意味である。しかし、この世に命のある限り、罪は尽きない。順誓は、すでにさとりを開いて罪というものはないのか。そんなことはないだろう。こういうわけだから、お聖教には、<信心がおこったそのとき、罪が消える>とあるのである」とお答えになりました。そして、「罪があるかないかを論じるよりは、信心を得ているか得ていないかを何度でも問題にするがよい。
罪が消えてお救いくださるのであろうとも、罪が消えないままでお救いくださのであろうとも、それは弥陀のおはからいであって、わたしたちが思いはからうべきことではない。ただ信心をいただくことこそが大切なのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。



(39)
一 仰せに、一念発起の義、往生は決定なり。罪消して助けたまはんとも、罪消さずしてたすけたまはんとも、弥陀如来の御はからひなり。罪の沙汰無益なり。たのむ衆生を本とたすけたまふことなりと仰せられ候ふなり。(御一代記聞書)

【現代語訳】
 「信心がおこるということは、往生がたしかに定まるということである。罪を消してお救いくださるのであろうとも、罪を消さずにお救いくださるのであろうとも、それは弥陀如来のおはからいである。わたくしたちが罪についてあれこれいうことは無意味なことである。弥陀は、信じておまかせする衆生をもとよりめあてとしてお救いくださるのである」と、蓮如上人は仰せになりました。


阿弥陀仏のお救いは本願を信じるか疑うかで決まるのであり、罪悪の有無や浅深は関係ありません。

・生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。(生死輪廻の家にとどまるのは本願を疑うからであり、さとりの城に入るのは本願を信ずるがゆえである。)(選択本願念仏集)
・生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす。 すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。(行文類)


なので蓮如上人は「ただ信心肝要なり」と教えられ、その信心とはどのような信心かを明らかにされていかれたのです。その際、親鸞会のように罪悪を突き詰め、「我が身は逆謗の屍である」とハッキリ知らされなければ信心獲得はできないなどと教えられているところは一ヶ所もありません。また、

『安心問答』12月18日親鸞会二千畳座談会より。質問「求道の心がけを教えてください」会長「群賊悪獣悪知識に気をつけよう」(参加者より頂いた情報より)

で質問者が「一念の決勝点まで進ませて頂く上で…」と言っているような、救いを向こうに眺めてそこまでどうやって進めばよいかなどということも教えられていません。

本願の名号、すなわち「助けるぞよ」を聞くのが信心です。この仰せを聞いて、自分の思いを入れず、まるまる如来のお助けに助けられる、といただくのです。本願の名号は既に成就され、私の元へ届いていますから、今この場でこのままの私が救われます。未だ本願の救いと関係ない話を聞くために苦労しておられる会員の皆さんは実にお気の毒です。「群賊悪獣悪知識に気をつけよう」と言っている高森会長が群賊悪獣悪知識の親玉なのです。どうかそのような間違った教えは投げ捨てて、本願の名号を聞いて頂きたいと思います。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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