【余談】信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われは物をもたずして人に物をとらすべきといふの心なり。人、承引あるべからず

信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われは物をもたずして人に物をとらすべきといふの心なり。人、承引あるべからず

の記事を書いていてふと思ったことですが、果たして親鸞会のような浄土真宗にあらざる団体を相手に、「自力」「他力」という言葉を使っていいものなのかどうかと疑問が起きました。まず「自力」とはどういうことか、親鸞聖人のお言葉を見て下さい。

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。(末灯鈔)

行者がそれぞれの縁にしたがって、阿弥陀仏以外の仏の名号を称え、あるいは念仏以外の善を修めて、自身をたのみとし、自らのはからい心で、身・口・意の三業の乱れをとりつくろい、立派に振舞って浄土に往生しようと思うことを自力というと言われています。ところが、親鸞会だと「浄土へ往生せんとおもふ」ではなく「(死ねば無間地獄に堕ちるの意で)後生の一大事を解決せんとおもふ」であって目的がまず違っています。
それに、浄土に往生しようとして修める行は阿弥陀仏以外の仏の名号を称えること、あるいは念仏以外の善ですが、親鸞会の場合は善と称してやっていることは主に親鸞会への献金や勧誘であり、組織拡大のためには偽装勧誘も是とし、本尊を取り返そうと深夜の押し掛け・職場への押し掛けも平気でやるような団体です。また、因果の道理をやかましく説いていながら万引きをしたり、子供の年齢を偽って公共交通機関を利用したりした講師部員もいるようです。

浄土真宗とは浄土に往生する真実の教えということです。目的が違い、善もどきの善を推奨し、主要な構成員が平気で悪を犯している、そんな団体に自力だ何だということ自体おかしな気がいたします。ただ、やっていることは別にして、「阿弥陀仏に助けて頂くにはどうしたらよいのか?」「(推進される活動が)信心決定するには必要なことだろう」などという気持ちは自力の計らいであり、会員の皆さんにはそういう気持ちがあると思い「自力」という言葉を使って書くことにしました。

くどいようですが、「自力一杯励まねば自力が廃って他力に帰することはできない」というものではありません。他力とはどういうことか、上の言葉に続いて親鸞聖人が仰っています。

また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。(末灯鈔)

第十八の念仏往生の本願に疑いないことを他力というのです。本願とはつまり「我にまかせよ、必ず救うぞ」という誓いのことです。本願に対する私の計らいを差し挟むことなくこの誓いを受容することを他力と言います。私の計らいはこの力強い仰せを聞くところに廃りますので、私の心に目を向けるのではなく、「聞くにはどうすればいいのか?」と方法論に執着するのでもなく、必ず助ける法を仰いで下さい。
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昔教学講義だったかで「自力一杯求めよ」「他力になるまで自力一杯求めよ」という言い方は×。「他力になるまで他力を聞け」という言い方をしなさいという話があったことがあります。
一応会長は昔「自力一杯求めよ」はよくない言い方、「自力はどこまでいっても自力」だという主旨の話をしたこともあるのはあります。ある程度講師歴がある人なら知ってるはずです。
実際は「そのままなりで助ける」他力本願の勧めはなく、他力に救われるにはどうすればいいか?「自力諸善から始めよ」が親鸞会教義なんですが。
「そのまま任せよ」と阿弥陀様は仰せられてはいるけど実際そんなうまい話はなかろうと会員は思う、その通り、諸善を励まないとそのままの救いをそのままとは聞けないのだよ、だから善をせよ。結局これです。
その善も中途半端じゃダメ、後生の一大事の解決の為ならば何を犠牲にしたって惜しくはないのだ、とこう聞かされて、無茶をする人を生み出すのです。
何か特別な精神状態になった時でなければ「そのまま」の仰せは聞けないと思っているのです。
笑われそうですが、私も会員時代、精根尽きるまでやってやってやり抜いて絶望のどん底に堕ちきったら「そのままー!」と聞こえて、キラキラした心の世界が開かれると思っていました。
だから自分から求めて絶望的な状況、苦しい状態になるようにしていました。変な破滅願望みたいなものにとらわれていました。周りにもやはりいました。
自力一杯求めなければ他力に救われないというのはイコール破滅しなければ他力に救われないだったのです。
だって親鸞会でいう自力一杯求めるというのは、精神力、時間、体力、お金、すべて親鸞会につぎ込むことですから、早晩破滅するということです。

>名無し様

私もその話は先輩から聞きました。『こんなことが知りたい』1に、

されば無力無信心の坊主や同行にだまされずに、善知識の教えに順じて、聞いて聞いて聞きぬき、他力になるまで、他力を聞きぬきましょう。(p.117)

と書いてありますね。ただ、同じページに

自力一杯求めたことのない者に自力無功と知らされる筈がありません。・・・自力無功を体験しない者に自力が廃ったということがありましょうか。自力が廃った一念の体験のないものに、他力にまかせ切った妙味など、判る筈がありません。

とも書いてあります。「自力一杯求めよ」という表現に非難があったからそれに応じて対策を取ったまでで、「自力無功と知らされねば他力にまかせ切った妙味は判らないのだから、自力無功と知らされるまで自力一杯求めよ」という教えであることは変わりありません。教えの実態は御指摘の通りです。

私も似たようなことを考えていましたよ。笑うつもりなど毛頭ありません。そうなるのも、高森教の邪義を真受けにしていたら無理ありません。同著に、

確かに真剣に求めるのは自力です。生れた時から他力に摂取されている者は一人もいないのですから、みんな自力で求めてゆくのです。そして聞けば聞くだけ、求めれば求めるだけ、聞ききらない必堕無間の自己に驚き、火の中突きぬけても、ここ一つはと思わずにおれなくなるのです。
 そして自力間に合わなかったと、助かる望みが断ち切られて、無間のドン底へ叩きおとされた時、十劫以来、呼び続けて下されていた阿弥陀仏のみ声が、五臓六腑を貫くのです。
「ただのただもいらんただであったか、他力とは、こんな楽な世界とは知らなんだ知らなんだ」とおどり上がるのです。(p.116)

とあり、無間のドン底という絶望的な状況でなければ救われないかのように書いてあります。

親鸞会で言う「他力になるまで他力を聞け」は、「自力無功と知らされねば他力にまかせ切った妙味は判らないのだから、自力無功と知らされるまで自力一杯求めよ」であり、実際のところは「助かりたかったら精神力、時間、体力、お金、すべて親鸞会につぎ込め」ということです。これでは破滅しかありませんね。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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