善知識のわろきと仰せらるるは、信のなきことをくせごとと仰せられ候ふことに候ふ

『御一代記聞書』には安心についてだけではなく、真宗の教えを聞く上で心がけるべきことも多々教えられています。それゆえ、正しい教えを装う悪知識によってその団体に都合のよいように利用されています。

信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われは物をもたずして人に物をとらすべきといふの心なり。人、承引あるべからず

の記事でもそのことを取り上げましたが、以下のお言葉も体よく利用されています。

(88)
一 人のこころえのとほり申されけるに、わがこころはただ籠に水を入れ候ふやうに、仏法の御座敷にてはありがたくもたふとくも存じ候ふが、やがてもとの心中になされ候ふと、申され候ふところに、前々住上人(蓮如)仰せられ 候ふ。その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。万事信なきによりてわろきなり。善知識のわろきと仰せらるるは、信のなきことをくせごとと仰せられ候ふことに候ふ。
(ある人が思っている通りをそのままに打ち明けて、「わたしの心はまるで籠に水を入れるようなもので、ご法話を聞くお座敷では、ありがたい、尊いと思うのですが、その場を離れると、たちまちもとの心に戻ってしまいます」と申しあげたところ、蓮如上人は、「その籠を水の中につけなさい。わが身を仏法の水にひたしておけばよいのだ」と仰せになったということです。「何ごとも信心がないから悪いのである。よき師が悪いことだといわれるのは、他でもない。信心がないことを大きな誤りだといわれるのである」とも仰せになりました。)

仏法からかけ離れた生活をしているとどんどん自分の心のままに流れてしまうから、常に仏法に触れるように生活しなさいとよく聞かされました。そして、朝晩のおつとめ、お仏花やお供物のお供え、共に求め合う仲間と接すること、本部会館や聞法会場・部室に足を運ぶことなどを勧められました。
親鸞会で説かれることが正しい真宗の教えであれば、これはもっともな話です。煩悩にまみれた身でありますから、信不信に関わらず自分の心のままに流れてはどうなるか分かりません。特に未信であれば、みすみす今度の一大事の往生を逃し、再び流転を重ねなければならなくなってしまうでしょう。ですから蓮如上人は「わが心にまかせずして心を責めよ」とも仰せになっています。これも親鸞会でよく利用されるお言葉です。

(47)
一 わが心にまかせずして心を責めよ。仏法は心のつまる物かとおもへば、信心に御なぐさみ候ふと仰せられ候ふ。
(「自分の心のおもむくままにしておくのではなく、心を引き締めなければならない。そうすると仏法は気づまりなものかとも思うが、そうではなく、阿弥陀如来からいただいた信心によって、心のなごむものである」と、蓮如上人は仰せになりました。)

会員は高森会長の説くところこそ本当の親鸞聖人の教えであると思い込んでおりますので、高森信心のある上でこれらのお言葉を聞きますと大変共感し、ますます親鸞会へとのめり込んでしまうのです。今は親鸞会の活動が大変で心が詰まっていても、信心獲得すれば全て報われるように信じていますので、縦の線まで何とか進もうと頑張るわけです。それが会の思うつぼであって、会員はまんまと利用され、中には精神病を患ってしまう方もあります。

さて、『聞書』を根拠に邪義を吹き込んでいる親鸞会ですが、会で問題にされるのは信心が有るか無いかではなく、聴聞に来ているかどうか、真剣に聞いているかどうか、高森会長の話を覚えているかどうか、活動に参加しているかどうか、会内に批判的な者がいるかどうか、こういうことばかりです。そして、聴聞に来ないこと、居眠り半分に聞くこと、話を覚えていないこと、活動に参加しないこと、会への批判的な意見を言うことを悪いとしています。
ところが『聞書』にあるように、蓮如上人が悪いと仰るのは、信心がないことです。私は高森会長に接したことがないので分かりませんが、高森会長の代官役である講師部員との会合でさえも、一度として信心が有るか無いかの沙汰をしたことがありません。これは講師部員自体が無信心である証拠でしょう。無信心の者同士で信心の沙汰をしても話が続きませんしできません。全員「有りません」で終わってしまうからです。無信心の講師部員や上司に仕え、獲信・往生とは無関係なことばかりやらされ、いつまで経っても信心決定できない会員の皆さんは実にお気の毒です。


親鸞会は、教義は大沼法竜師、伊藤康善師らのパクリ損ないであり、S価の組織拡大法を真似て大きくなってきただけの新興宗教団体です。教えが親鸞聖人と如何に異なるものであるかは様々なブログ等で指摘されている通りです。特に飛雲親鸞会教義の誤り親鸞会の邪義を正すには悲惨なほどその誤りが暴かれておりますので参照下さい。今は、分かりやすくまとめられている親鸞会の邪義を引用いたします。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間


2.五逆罪・謗法罪について

文字色親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている


3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である


4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない


5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力


6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ


7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ


8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない


9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる


10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

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プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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