聖教は句面のごとくこころうべし

親鸞会が会員に親鸞会教義のみを徹底させるために利用されているお言葉の一つが、『聞書』の以下のお言葉です。

(137)
一 一句一言を聴聞するとも、ただ得手に法を聞くなり。ただよくきき、心中のとほりを同行にあひ談合すべきことなりと[云々]。
(わずか一言のみ教えであっても、人はとかく自分に都合のよいように聴聞するものである。だから、ひたすらよく聞いて、心に受けとめたままを念仏の仲間とともに話しあわなければならない。)

確かに人は自分の都合のよいように聴聞するものです。聴聞だけではなく、お聖教を読んでいてもそうです。正しく受け取ることもありますし、間違った解釈をする場合も当然あります。ところが親鸞会では、自分の解釈は全て間違いであり、高森会長や講師部、講師の中でも上のクラスの人から聞きなさいと教えられます。こうした教育によって会員は自分でお聖教の意味を考えることをしなくなり、親鸞会教義のみを植えつけられます。また、お聖教に書いてあることが親鸞会教義と食い違うことがあっても、質問した相手に上手く丸め込まれてしまうのです。
近年では教義の破綻が顕著であり、会員にはなるべくお聖教に直接触れさせないようにしています。そして『なぜ生きる』や『歎異抄をひらく』、『教学聖典』、その他高森会長の著書を根拠に教義の徹底を図っているようです。その結果、親鸞会的な用語ですが教学力のある人は年々少なくなり、『教学聖典』に出てくる断章された一部のお言葉しか知らない会員が増えています。私が大学一年生だった頃(2001年)は『真宗聖典』を読みこなしている先輩が少なくありませんでしたが、私が退会する頃(2009年)にはそんな学生は少なくとも私の周囲には見かけませんでした。
自分勝手な解釈をしてはならないのはその通りですが、「聖教は句面のごとくこころうべし」と蓮如上人は教えられています。

(89)
一 聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。蓮如上人は、ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。また百遍これをみれば義理おのづから得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり。
(お聖教を拝読しても、ただぼんやりと字づらを追っているだけでは何の意味もありません。蓮如上人は、「ともかく繰り返し繰り返しお聖教を読みなさい」と仰せになりました。世間でも,書物は百遍,繰り返し読めば,その意味はおのずと理解できるというのだから、このことはよく心にとどめておかねければなりません。お聖教はその文面にあらわれている通りにいただくべきものです。その上で、師のお言葉をいただかなければならないのです。自分勝手な解釈は、決してしてはなりません。)

真宗には、文面の底に密かに沈んでいる、特定の人だけしか解釈できない文章はないということです。お聖教は文面の通りにいただき、その上で師のお言葉を仰げと仰せです。
お聖教は、意味を取り違えることもありますし、難しいところもあります。しかし、『御文章』は意味を取り違えることもないだろうと蓮如上人は仰っています。

(53)
一 御文のこと、聖教は読みちがへもあり、こころえもゆかぬところもあり。御文は読みちがへもあるまじきと仰せられ候ふ。御慈悲のきはまりなり。これをききながらこころえのゆかぬは無宿善の機なり。
(御文章について、蓮如上人は、「お聖教というものは、意味を取り違えることもあるし、理解しにくいところもある。だが、この文は意味を取り違えることもないだろう」と仰せになりました。わかりやすく書かれた御文章は、お慈悲のきわまりです。これを聞いていながら、信じ受け取ることのできないものは、仏法を聞く縁がまだ熟していない人なのです。)

昔と今とで意味の違う、たとえば「たのむ」などの言葉を除いて、『御文章』は平易に書かれた分かりやすい文章です。意味を取り違えることも少ないでしょう。少々抜き出してみますと、

・そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば・・・さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。(2帖目9通)

・しかればこの阿弥陀如来をばいかがして信じまゐらせて、後生の一大事をばたすかるべきぞなれば、なにのわづらひもなく、もろもろの雑行雑善をなげすてて、一心一向に弥陀如来をたのみまゐらせて、ふたごころなく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を光明を放ちてそのひかりのなかに摂め入れおきたまふなり。これをすなはち弥陀如来の摂取の光益にあづかるとは申すなり。または不捨の誓益ともこれをなづくるなり。
かくのごとく阿弥陀如来の光明のうちに摂めおかれまゐらせてのうへには、一期のいのち尽きなばただちに真実の報土に往生すべきこと、その疑あるべからず。このほかには別の仏をもたのみ、また余の功徳善根を修してもなににかはせん。(3帖目4通)


とありまして、獲信・往生のために(因縁となる)善をせよと教えられるどころか、それを雑行と名づけて嫌い、「なげすてて」と仰せになっています。雑行は、雑行を雑行と知らされるまでしなければ捨てられないというものではありません。もしそうなら蓮如上人は積極的に善を勧められているはずです。しかし、倫理道徳的な善こそ勧められ、獲信・往生に関して善を勧められている箇所は皆無です。

・それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。(3帖目12通)

・一つには、自身の往生すべき安心をまづ治定すべし。二つには、ひとを勧化せんに宿善・無宿善のふたつを分別して勧化をいたすべし。・・・
そのゆゑはいかんといふに、宿善開発の行者一念弥陀に帰命せんとおもふこころの一念おこるきざみ、仏の心光かの一念帰命の行者を摂取したまふ。その時節をさして至心・信楽・欲生の三信ともいひ、またこのこころを願成就の文(大経・下)には「即得往生住不退転」と説けり。あるいはこの位を、すなはち真実信心の行人とも、宿因深厚の行者とも、平生業成の人ともいふべし。されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。
しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)と仰せられたり。これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。
このゆゑに、宿善の有無の根機をあひはかりて人をば勧化すべし。(4帖目1通)

・これによりて、このごろ真宗の念仏者と号するなかに、まことに心底より当流の安心決定なきあひだ、あるいは名聞、あるいはひとなみに報謝をいたすよしの風情これあり。もつてのほかしかるべからざる次第なり。そのゆゑは、すでに万里の遠路をしのぎ莫大の辛労をいたして上洛の輩、いたづらに名聞ひとなみの心中に住すること口惜しき次第にあらずや。すこぶる不足の所存といひつべし。ただし無宿善の機にいたりてはちからおよばず。(4帖目8通)


蓮如上人は人に法を伝えようとする時の注意として、宿善・無宿善の機を沙汰しなさいと教えられています。無宿善の人は、親鸞聖人の教えを受け入れられず、かえって誹謗の元になるからです。どこにも宿善を求めよ・厚くせよという意味のことは書かれていません。これらに目を通した上で、

・あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。(4帖目15通)

を読めばお分かりかと思いますが、「宿善まかせ」とは宿善を求めねばならない、薄い宿善を厚くしなければならないという意味ではありません。

・阿弥陀如来の仰せられけるやうは、「末代の凡夫罪業のわれらたらんもの、罪はいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべし」と仰せられたり。かかるときはいよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、極楽に往生すべしとおもひとりて、一向一心に弥陀をたふときことと疑ふこころ露ちりほどももつまじきことなり。 (4帖目9通)

・今の世にあらん女人は、みなみなこころを一つにして阿弥陀如来をふかくたのみたてまつるべし。そのほかにはいづれの法を信ずといふとも、後生のたすかるといふことゆめゆめあるべからずとおもふべし。されば弥陀をばなにとやうにたのみ、また後生をばなにとねがふべきぞといふに、なにのわづらひもなく、ただ一心に弥陀をたのみ、後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人をば、かならず御たすけあらんことは、さらさらつゆほども疑あるべからざるものなり。(4帖目10通)


この2通の他、沢山の『御文章』に書かれていることですが、救われるにはただ弥陀の「後生助けるぞ」の仰せをそのまま受け入れ、仰せの通り後生をおまかせする以外にはありません。信の一念を縦の線とし、そこまで必ず通らねばならない道程があると横の線を書いて力説している親鸞会ですが、横の線に該当する教えはないのです。

・「たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、このゆゑにわれらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と[云々]。これもうつくしく当流の信心をえざる人なりときこえたり。そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。これによりて五重の義をたてたり。
一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。しかれども帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おほきなるあやまりなりとこころうべきものなり。(2帖目11通)


善知識とは阿弥陀仏に帰命せよと説くばかりの人です。阿弥陀仏に帰命するのに関係ない善(雑行)の勧めをしたり、本来存在しない道を19願と20願、あるいは二河譬の白道に当てはめて聞く者を献金・勧誘要員として利用したりするような人は悪知識です。ですから、講師部員に無条件服従を徹底し、会員にまで浸透させ、「高森先生から聞かねば助からない」「高森先生の仰ることには無条件に従わねば助からない」と皆が思うように仕向けているのです。善知識だのみを異安心と教えられてはいても、内心会員は知識帰命に陥っています。そう思わせているのが、またも親鸞会に利用されている『聞書』の以下のお言葉です。

(192)
一 善知識の仰せなりとも、成るまじなんど思ふは、大きなるあさましきことなり。成らざることなりとも、仰せならば成るべきと存ずべし。この凡夫の身が仏に成るうへは、さてあるまじきと存ずることあるべきか。しかれば道宗、近江の湖を一人してうめよと仰せ候ふとも、畏まりたると申すべく候ふ。仰せにて候はば、成らぬことあるべきかと申され候ふ。
(よき師の仰せではあるが、これはとうてい成就しそうにないなどと思うのは、大変嘆かわしいことです。成就しそうにないことであっても、よき師の仰せならば、成就すると思いなさい。この凡夫の身が仏になるのだから、そのようなことはあるはずがないと思うほどのことが他に何かあるでしょうか。そういうわけで、赤尾の道宗は、「もし蓮如上人が、<道宗よ、琵琶湖を一人で埋めなさい>と仰せになったとしても、<かしこまりました>とお引き受けするだろう。よき師の仰せなら、成就しないことがあろうか」といわれたのです。)

既に示したように、高森会長はとても善知識とは呼べません。真宗教義をねじ曲げ、私利私欲を満たすために教えを利用している人物をいくら無二の善知識と仰ぎ、その指示に無条件服従していても弥陀に帰命することはできません。ご家族や門徒の信心決定をひたすら願い、安心のことだけを教え伝えられた蓮如上人にだからこそ、道宗はどのような仰せにも「はい」とお引き受けするだろうと書かれているのです。安心とは無関係であったり、獲信の障害になるようなことばかり教える高森会長の指示を、何百回何千回「かしこまりました」と引き受けていても無駄事です。
講師部員はじめ会員の皆さんは、いつまで文底秘沈の邪義に付き合うつもりでしょうか? この世の寿命が切れ、一大事の後生助からずまたしても流転の旅とならぬよう願うばかりです。
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Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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