同行・善知識にはよくよくちかづくべし。「親近せざるは雑修の失なり」と『礼讃』(意)にあらはせり

熱心な、あるいは熱心だった親鸞会会員ほど、会員以外との人間関係が希薄になりがちです。退会を躊躇する理由の一つに、周囲に親しい人が会員しかいないということが挙げられると思います。そうさせている、そうさせてきたのが、親鸞会によく利用されている『聞書』の以下のお言葉です。

(150)
一 同行・善知識にはよくよくちかづくべし。「親近せざるは雑修の失なり」と『礼讃』(意)にあらはせり。あしきものにちかづけば、それには馴れじと思へども、悪事よりよりにあり。ただ仏法者には馴れちかづくべきよし仰せられ候ふ。俗典にいはく、「人の善悪は近づき習ふによる」と、また「その人を しらんとおもはば、その友をみよ」といへり。「善人の敵とはなるとも、悪人を友とすることなかれ」といふことあり。
(「念仏の仲間やよき師には、十分に親しみ近づかなければならない。<念仏者に親しみ近づかないのは、自力の人の過失の一つである>と、『往生礼讃』に示されている。悪い人に親しみ近づいていると、自分はそのようにはならないと思っていても,縁にふれて悪いことをするようになる。だから、ただひたすら、深く仏法に帰依した人に親しみ近づかなければならない」と、蓮如上人は仰せになりました。一般の書物にも、「人の善悪は、その人が近づき習うものによって決る」、「その人を知ろうと思うなら,その友を見よ」という言葉があります。また、「たとえ善人の敵となることがあっても、悪人を友とするな」という言葉もあります。)

これは「縁が大事である」という話の中でよく出てきます。学友部出身者であれば耳タコでしょう。善知識を高森会長とし、高森先生とのご縁は欠かしてはならないということで法話やビデオ法話には必ず参加するように言われました。私が1年生の時に、ビデオ法話を休んで家族旅行へ行ったことがありましたが、その後で先輩から随分と叱られた記憶があります。
また、学生であれば予定表が配られてどの行事に参加予定かを書かされます。法話、ビデオ法話、学友部長クラスの講師の話が優先され、それらに不参加の旨を伝えると理由を聞かれ、予定を調整して参加するようよく説得されました。
このようになるべく多くの行事に参加することを求められ、親鸞会で言う後生の一大事の解決のためだからと活動を続けていくと、どうしても親鸞会会員との付き合いばかりになってしまいます。大学で四年間、世俗の楽しみを求めず、親鸞会の活動に心血を注いでいたら、それ以降会員以外との人間関係が広まる人は稀でしょう。そんな人が、あるいはハードな活動に疲れ、あるいは救いは得られないと絶望し、あるいは教義の疑問を抱くようになっても、それまでその人の生活の大きな部分を親鸞会が占め、多くの時間を会員と共有してきたのです。その親鸞会を退会すれば、少数を除いて多くの会員との人間関係はおそらく切れてしまいます。

・他にどこで聞いたらよいのか分からない
・信心決定できずに死ねば後生は一大事
・自分が今まで信じてきた教えだから間違いであってほしくない
・信じて費やしてきたものが無駄事であってほしくない
・誰が何と言おうと高森先生は正しい


などの理由に加えて、親鸞会退会を躊躇するのに

・人間関係を壊したくない

というのが大きく影響しています。特に家族、親せき、親友が会員であればなおさらでしょう。


ここで、「善知識」というのは聖教は句面のごとくこころうべしなどで示しているように阿弥陀仏に帰命せよとばかり教える人であって、救いと無関係のこと、親鸞聖人が教えられていないこと、親鸞聖人の勧めと真逆なことばかりをまことしやかに教えるのは悪知識です。そんな悪知識や、悪知識を信奉する者に親しみ近づいているのは「雑修の失」であります。会員の皆さんは、残念ながら「善知識」「同行」の定義を間違って教えられているのです。
そして、偽善知識は何かと布教にかこつけて信者から物を取るというのが常です。再三再四に亘って手を変え品を変えては財施を募り、会員が疑問に思うことは「会員一人一人の信心決定を願っての高森先生の深い御心」で片づけている親鸞会。しかし、彼の「深い御心」とやらにかなうようにと行動していてもダメです。本願を正しく説いていないのに、会員の信心決定を願うも願わないもないでしょう。第一、蓮如上人のお心にかなうようにと思っていた人にさえ上人は「悪い」と仰せられているのです。

(186)
一 信をとらぬによりてわろきぞ。ただ信をとれと仰せられ候ふ。善知識のわろきと仰せられけるは、信のなきことをわろきと仰せらるるなり。しかれば、前々住上人(蓮如)、ある人を、言語道断わろきと仰せられ候ふところに、その人申され候ふ。なにごとも御意のごとくと存じ候ふと申され候へば、仰せられ候ふ。ふつとわろきなり。信のなきはわろくはなきかと仰せられ候ふと[云々]。
(「信心を得ていないから悪いのである。ともかくまず信心を得なさい」と、蓮如上人は仰せになりました。上人が悪いことだといわれたのは、信心がないことを悪いといわれたのです。このことについて、次のような話しがあります。上人がある人に向かって「お前ほど悪いものはない。言語道断だ」と仰せになたところ、その人は「何ごとも上人のお心にかなうようにと思っておりますが、悪いところがあるのでしょうか」とお答えしました。すると上人は、「まったく悪い。信心がないのは悪くはないのか」と仰せになったということです。)

悪いのは、光に向かって進まないことでも、煩悩と闘って横の道を進まないことでも、勧誘や献金をしないことでも、必堕無間の極悪人と知らされないことでも、宿善を求めないことでも、善をして信仰を進めようとしないことでもありません。信心がないことです。信心を得るとは、「必ず助ける」という阿弥陀仏の仰せを疑いなく聞き受けて、仰せの通り後生をおまかせすることです。そうなることが、善知識のお心にかなうことなのです。
獲信までに私達が通らねばならない道、クリアしなければならない条件、用意しなければならないものは一つもありません。本来存在しない道程を設け、様々な条件を課し、必要ない用意をさせて、信心を得させずにいる知識は偽善知識です。「会員一人一人の信心決定を願って」など言葉だけで願いはこもっておりません。会員を組織拡大、私利私欲を満たすために利用しているだけです。善知識のお心を知らず、こちらで想像してそれにかなうようにと思っているのが悪いなら、偽善知識の心にかなうようにと思っているのはなおさら悪いことであります。
「あしきものにちかづけば、それには馴れじと思へども、悪事よりよりにあり」で、偽装勧誘や自宅・職場への押し掛け、監禁まがいの行為、悪口妄語など、親鸞会にいる限り「悪事よりよりにあり」です。「善人の敵とはなるとも、悪人を友とすることなかれ」のお言葉の通り、造悪を勧める団体とはさっさと縁を切るべきでしょう。
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No title

教えの間違いに気づきながら、人間関係が切れてしまうのを恐れて会を辞められない人には、よくよく考えて欲しいです。後生の一大事と浮生の交衆とどちらが重いかを。

>maelstrom様

この世は一旦の浮生であり、後生は永生の楽果ですからね。不定の人間にあるよりも、常住の極楽を願って頂きたいと思います。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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