もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし

今までいくつか紹介してきましたが、『聞書』の以下のお言葉も、親鸞会で破邪顕正(勧誘)を推進するのによく利用されています。

(194)
一 前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。信決定の人をみて、あのごとくならではと思へばなるぞと仰せられ候ふ。あのごとくになりてこそと思ひすつること、あさましきことなり。仏法には身をすててのぞみもとむる心より、信をば得ることなりと[云々]。
(蓮如上人は、「信心がたしかに定まった人を見て、自分もあのようにならなくてはと思う人は、信心を得るのである。あのようになろうとしても、なれるはずがないとあきらめるのは嘆かわしいことである。仏法においては、命をかけて求める心があってこそ、信心を得ることができる」と仰せになりました。)

高森会長のことを指して「信決定の人」といい、「世界の光 親鸞聖人」のアニメや、高森会長の苦労話を収録したビデオを見せられたり、あるいは講師から聞かされたりして、「自分もあのようにならなくては」と思う人は信心獲得できるのだと教えられました。逆に、「あれは信心決定した人だからできることだ」「自分にはとてもできることではない」とあきらめて破邪顕正に立ち上がらないようでは助からないと聞かされました。「あさましきことなり」と蓮如上人が仰っているところは、全て「助からない」と説明するのが親鸞会の常です。そして、「身をすててのぞみもとむる心より、信をば得ることなり」の箇所を引いて、命懸けの求道をした者だけが信心獲得の凱歌を上げることができるかのように話があり、高森会長の法話に必ず参詣することと共に勧誘や献金を推進されました。こうした話の後には、今度の行事には何人誘うだの、友人知人をリストアップして電話するだの、募財の用紙を配られて納金金額を記入するだのと、色々やらされた記憶があります。

勧誘活動に利用されているお言葉はまだありますが、以下は『教学聖典』6号にも出ていて、会員ならほとんどが知っているお言葉です。

(114)
一 おなじく仰せに、まことに一人なりとも信をとるべきならば、身を捨てよ。それはすたらぬと仰せられ候ふ。
(蓮如上人は、「たとえただ一人でも,本当に信心を得ることになるのなら、わが身を犠牲にしてでもみ教えを勧めなさい。それは決して無駄にはならないのである」と仰せになりました。)

親鸞会では、「一人でも聞く人がいるなら、自分の時間、体力、金銭をその人のために使いなさい。それは決して無駄にはならない、生かされるのだ」と教えられました。よく親鸞会的宿善論とセットで用いられ、破邪顕正は最高の宿善であり、人にお伝えして仏法に導くことが自らの救いにも連なってゆくのだから、今後ますます破邪顕正に邁進しましょう、光に向かって進ませて頂きましょうという話がなされました。


さて、破邪顕正、破邪顕正と威勢よく言っている親鸞会ですが、ここで親鸞会の言う破邪顕正の定義を見てみましょう。

問 破邪顕正することが厚い宿善になると言われますが、破邪顕正とは、どんなことでしょうか。

答 破邪とは、よこしまな間違った邪教の信仰や迷信を持っている人を、さわらぬ神にたたりなしと思って見ぬふりをしたり、聞いて聞かぬふりせずに、その間違っていることをハッキリ教えて邪を破ってあげることです。
 顕正するというのは、ただ間違っていることを打ち破るだけではなく正しい仏法をハッキリ教えてあげることで、一人でも多くの人に親鸞聖人の教え給える正しい信心をひろめることです。
 これを聖人は『御和讃』に
「他力の信を獲ん人は、仏恩報ぜんためにとて、如来二種の回向を十方に、ひとしくひろむべし」
と仰言ってあります。それは他力の信心を獲た人に仰言ったことではないかと言う人があるかも知れませんが、そうではありません。
 自分はまだ信心決定していないから他人を導く資格がないからやらないのだという人がありますが、その考えは絶対に間違っています。そんな心がけだから信心が徹底しないのです。真実を知らない人に真実を教え、求めねばならぬわけを説いているうちに、いや他人に説くことによって自分の聞法心も深まって来るのです。即ち、宿善が厚くなるのです。法施は最上の布施行だからです。
 小学生の生徒にイヤな算数をただやらせた場合と、下級生に教える為にやらせた場合とでは後者の方がズーッと算数に興味を覚え成績もよくなります。だから貴方の知っている一杯をまだ知らない人々に話して聞かせ正法に導くことは、その人の厚い宿善になるのです。(『こんなことが知りたい1』p.86~p.88)


まず問からして真宗の宿善論とは逸脱しておりますが、「正しい仏法」も「親鸞聖人の教え給える正しい信心」も何も分かっていないことが文面から伺えます。
親鸞聖人の教え給える正しい信心とはどのようなものか、聖人は『信文類』に詳しく説かれています。まずは冒頭の「大信釈」のお言葉です。

つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。 この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。 なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。
(つつしんで、往相の回向をうかがうと、この中に大信がある。大信心は、生死を超えた命を得る不思議な法であり、浄土を願い娑婆世界を厭うすぐれた道であり、阿弥陀仏が選び取り回向してくださった疑いのない心であり、他力より与えられる深く広い信心であり、金剛のように堅固で破壊されることのない真実の心であり、それを得れば浄土へは往きやすいが自力では得られない清らかな信であり、如来の光明におさめられて護られる一心であり、たぐいまれなすぐれた大信であり、世間一般の考えでは信じがたい近道であり、この上ないさとりを開く真実の因であり、たちどころにあらゆる功徳が満たされる清らかな道であり、この上ないさとりの徳をおさめた信心の海である。
 この信心は念仏往生の願(第十八願)に誓われている。この大いなる願を選択本願と名づけ、また本願三心の願と名づけ、また至心信楽の願と名づける。また往相信心の願とも名づけることができる。
 ところで、常に迷いの海に沈んでいる凡夫、迷いの世界を生れ変り死に変りし続ける衆生は、この上もないさとりを開くことが難しいのではなく、そのさとりに至る真実の信心を得ることが実に難しいのである。なぜなら、信心を得るのは、如来が衆生のために加えられるすぐれた力によるものであり、如来の広大ですぐれた智慧の力によるものだからである。たまたま、清らかな信心を得たなら、この信心は真如にかなったものであり、またいつわりを離れている。そこで、きわめて深く重い罪悪をそなえた衆生も、大きな喜びの心を得て、仏がたはこのものをいとおしみ、お護りくださるのである。)


この中で親鸞会の会員が特に知らねばならないのは、正しい信心とは

「選択回向の直心」(阿弥陀仏が選び取り回向してくださった疑いのない心)
「利他深広の信楽」(他力より与えられる深く広い信心)


であるということでしょう。「獲信の因縁として善を修せよ」「善をしなければ信仰は進みません」「自分はまだ信心決定していないから他人を導く資格がないから(破邪顕正を)やらないのだという人がありますが、その考えは絶対に間違っています。そんな心がけだから信心が徹底しないのです」などと言い、真実信心を自力で掴みにかかっているのは定散の自心の類です。それでは絶対に得られないから

「易往無人の浄信」(それを得れば浄土へは往きやすいが自力では得られない清らかな信)

なのです。また、白道を信前に煩悩と闘って進む道としているのも誤りです。

「極速円融の白道」(たちどころにあらゆる功徳が満たされる清らかな道)

とあるように真実信心を白道と言うのです。更に、「真実の信楽まことに獲ること難し」とあるように難信だから何十年聞いていても獲信できない、というものではありません。なぜ信心を得るのが難しいと言われるのかというと、

なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。(なぜなら、信心を得るのは、如来が衆生のために加えられるすぐれた力によるものであり、如来の広大ですぐれた智慧の力によるものだからである。)

とある通りです。この如来のすぐれた御力を疑い計らって、自力で捉えようとしているから難信なのです。

それから親鸞聖人は、様々な経典や釈の文を引かれた後、「総決」として

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。
(このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい。)

と仰っています。私達の往生の行も信も全て阿弥陀仏がお与え下さるのであり、この一方的なお助けを疑いなく受容し念仏するのが、本願の行信を得た念仏者なのです。私の方から弥陀の救いに向かって進んでいくのではなく、今目の前に差しのべられている救いをお聞かせ頂くのです。

自分はまだ信心決定していないから他人を導く資格がないからやらないのだという人がありますが、その考えは絶対に間違っています。そんな心がけだから信心が徹底しないのです。

ではなく、

獲信するには(必堕無間の意で)後生の一大事を知らねばならない、因果の道理を深く知らされねばならない、必堕無間の自己に驚き立たねばならない、煩悩と闘って白道を進まねばならない、19願の善をしなければならない、宿善を厚くしなければならない、人にお伝えしなければならない、という人がありますが、その考えは絶対に間違っています。そんな心がけだから信心が徹底しないのです。

であります。邪義・異安心の会長や会員にだまされずに、善知識の教えに順じて、本願他力の救いを聞いて只今救われて頂きたいと思います。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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