一心決定のうへ、弥陀の御たすけありたりといふは、さとりのかたにしてわろし

浄土真宗の救いというのは、この世で本願を信じ念仏する身となり、その人が臨終一念の夕に往生成仏するというものです。本願を信じたその時に救いは定まるので、この教えを「一念発起平生業成の義」等と蓮如上人は仰せになっています。ここで、弥陀の救いは「平生に定まる」のであって、「平生に救われる」という表現はよろしくはありません。「救われた」「助けられた」と言うのは、現在のこの身でさとりを開いたように聞こえるのでよくないと上人は『聞書』に仰っています。

(204)
一 前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。一心決定のうへ、弥陀の御たすけありたりといふは、さとりのかたにしてわろし。たのむところにてたすけたまひ候ふことは歴然に候へども、御たすけあらうずというてしかるべきのよし仰せられ候ふ[云々]。一念帰命の時、不退の位に住す。これ不退の密益なり、これ涅槃分なるよし仰せられ候ふと[云々]。
(蓮如上人は、「信心がたしかに定まったのだから、弥陀のお救いをすでに得たというのは、現在のこの身でさとりを開いたように聞こえるのでよくない。弥陀を信じておまかせするとき、お救いくださることは明らかであるけれども、必ずお救いにあずかるというのがよいのである」と仰せになりました。また、「信心をいただいたとき、往生成仏すべき身となる。これは必ず成仏するという利益であり、表にはあらわれない利益であって、仏のさとりに至ることに定まったということなのである」とも仰せになりました。)

この世では名号が至り届いた信の一念に必ず往生成仏すべき身となり、それを現生十種の益では入正定聚の益と顕されています。しかし、この身は依然として煩悩具足であり、正定聚の位に入るとはいえ娑婆の苦悩が抜き取られるのではありません。流転輪廻の罪は消えても、依然としてつらいことや苦しいことはやってきます。生きてゆくには、時に他人の力を借りながらも自分の力でそれらに立ち向かってゆくしかありません。私は会員時代、救われた暁には苦しいことも煩悩即菩提で瞬時に喜びに転じ変わるのだろうなどと考えていましたが、残念ながらそういう訳にはいかないのです。そういった意味において、「平生に救われる」というと語弊があります。


ところで、親鸞会では『正信偈』の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」を

「親鸞は弥陀に救われたぞー」
「親鸞は弥陀に助けられたぞー」


と高らかに宣言されたお言葉としていますが、これではこの世でさとりを開いたかの如き印象を与えるでしょう。常に救われた喜びに満ち溢れ、一切の娑婆の苦悩から解放されたようにも感じてしまいます。また、親鸞会教義によると信一念に

・一切の過去も未来も皆分かる
・自分は逆謗の屍だとハッキリ知らされ、全ての人が逆謗の屍だと知らされる
・深信因果させられる(因果の道理まことであったとハッキリ知らされる)
・極楽参り間違いなしとハッキリする
・阿弥陀仏の御心がハッキリ知らされる
・一切の苦労は報われ、流した涙の一滴一滴が真珠の玉となってその手に戻る
・(二河譬の話で)それまで幅四、五寸だった白道が無碍の大道に変わり、水火二河が光明の広海に変わる


などと、相当のことが「ハッキリ知らされる」ようです。「ハッキリ」というのがどうもハッキリしませんが、推測するに一点の疑いもなく、この目で物を見るようによく分かる、鮮明に知らされるということでしょう。


救いが平生に定まることを強調するあまり「平生に救われる」という表現になり、様々な尾ひれがくっついてこのような教えになったのか。あるいは信心決定を神秘的体験と思わせ、憧れを抱かせ、「その身になりたかったら教えに従いなさい」と人を自分の意のままに操りたかったのか。どちらとも言えますが、ほぼ全て間違っています。

まず「一切の過去も未来も皆分かる」というのは、善導大師の『散善義』の

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

を根拠としていますが、信心を頂いたとて曠劫流転してきた一切の過去、出離の縁なき永遠の未来が皆分かる、知らされるというものではありません。一切の過去が分かるなら、例えば自分の前生は何であったとか、前前生は何であったとかが分かるということになりますが、そんなものは分かるはずもありません。1年前の夕飯の献立さえ当てるのは難しいでしょうね。また一切の未来が分かるなら、明日の自分、明後日の自分、果ては死後の自分が分かるということになりますが、そんな未来予知能力は具わりません。
分かるのは、自分は罪悪にまみれた身で、いつ始まったとも知れない昔から苦しみ続けてきたであろうこと、これからも自力では迷いの世界を出離できないということです。「分かる」と言いましても、共通しているのは自力無功ということで、その他罪悪観や三世、輪廻などについての見解や感じ方は人それぞれ、仏教の勉強量や質によっても異なります。
それに、このお言葉は一他力の信心を二種に開いて顕された内の片方であり、他力にまかせた故に自力を離れたことを顕しています。他力にまかせたということは自力を離れたことであり、自力を離れたということは他力にまかせたということです。この二つは別のものではありません。親鸞会の活動を精一杯一生懸命やっていった末に「地獄しか行き場のない私でした」と知らされるとか、そうしなければ他力の信心は得られない、というのは誤りです。他力の信心とは「必ず助ける」本願に疑いない心ですが、それに何やらいっぱいくっついてあれもこれも皆知らされるように誤解させているのが親鸞会です。

「自分は逆謗の屍だとハッキリ知らされ、全ての人が逆謗の屍だと知らされる」については根拠がありません。高森会長の妄言に過ぎません。逆に全ての人が五逆・謗法の者でない根拠ならありますが。(『飛雲』 『末灯鈔』のお言葉は、「全人類≠五逆謗法の者」を証明された根拠参照)

「深信因果させられる(因果の道理まことであったとハッキリ知らされる)」ですが、さとりを開いたわけでもないのであり得ません。第一、本当にそうなら学生に偽装勧誘をやらせたり、不当と言える契約書を書かせたり、本尊を取り返そうと深夜に押し掛けたり、その他さよなら親鸞会などで取り上げられている様々な悪事をやらかす筈がありません。

「極楽参り間違いなしとハッキリする」の根拠として「往生一定、御たすけ治定」(領解文)の言葉を用いていますが、極楽の様相が見えるわけではありませんからこの表現はよくありません。阿弥陀仏の方からは極楽参りがハッキリしていても、私の方からは後生どのような世界に生まれるか実のところハッキリ致しません。私としては、どのようなところに生まれるかも含めて全て阿弥陀仏に委ねるのみです。(『飛雲』解釈も信心も基準は親鸞聖人であって、私ではない参照)

「阿弥陀仏の御心がハッキリ知らされる」の根拠として「仏智満入」(改邪鈔)、「仏智全領」(?)の言葉を用いていますが、この「仏智」は名号のことであり、名号が私に往生成仏のたねとして具わって下さることを表されているのです。仏の智慧が私に具わるのではありません。仏のお心は仏のみの知るところです。どういうお心なのか知識から聞いたり、経典やお聖教より学んだりはできますが、信の一念に仏智が具わるというものではありません。仏智が具わったならその人は仏です。これでは次生浄土に往生し成仏する浄土教ではなくなっています。

「一切の苦労は報われ、流した涙の一滴一滴が真珠の玉となってその手に戻る」は、会員を勧誘と献金に駆り立てるワードでしかありません。苦労が報われるとしたらそれは阿弥陀仏のご苦労が報われるのであり、往生成仏に関して私は苦労していませんので当然報われるということもありません。そして報われる苦労であるならば、それは自力が間に合うということで、他力回向に反する自力回向の考えです。

最後の「(二河譬の話で)それまで幅四、五寸だった白道が無碍の大道に変わり、水火二河が光明の広海に変わる」は完全な誤りです。親鸞会の二河譬は高森会長の創作であり、勧誘と献金を促すためのツールになっています。詳しくは『親鸞会教義の誤り』宿善とは7宿善とは8などを参照して下さい。

根拠もない珍説を振りかざし、最後は「それは信心獲得していないから分からないのだ」「信心獲得したら知らされること」「早くそこまで進んで下さい」で片づける親鸞会。会員は高森会長を盲信し、そして信心獲得をものすごい体験のようにとらえていますので、熱心な人は何とかその身になろうと並々ならぬ苦労をしていると思います。しかし、以上のように親鸞会で教えられることは全てと言っていいほどデタラメですので、いくら信じて従っていても詮ないことです。現当二益と教えてはいても、会員の多くは一益法門的な理解であり、実態は現当無益な教えです。早く、信心とは往生を弥陀におまかせすることだと知らされ、往生成仏すべき身となって頂きたいものです。
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No title

正信偈の最初の二句は、南無阿弥陀仏の漢語訳ですよね。
親鸞聖人はじめ七高僧がたの中で、南無阿弥陀仏を阿弥陀仏に救われたぞ-、助けられたぞ-と同じ意味で説明されている方はみえるのでしょうか。
少なくとも蓮如上人の御文章には無いですよね。

>雑草様

そうですね。
善導大師は六字を、願行具足しているから必ず往生を得ると教えられ、親鸞聖人は「帰命」「発願回向」「即是其行」と教えられ、蓮如上人は更に機法一体の意味で教えられています。

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%AE%89%E5%BF%83%E8%AB%96%E9%A1%8C/%E5%85%AD%E5%AD%97%E9%87%88%E7%BE%A9
安心論題/六字釈義

などを参照して下さい。高森会長のような解釈は『御文章』にも『正信偈大意』にもありません。現在のところ他のお聖教にも見ることはできません。
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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