当流には信をとることを宿善といふ。信心をうること肝要なり

親鸞会では宿善を「宿世の善根」と説明し、宿善の薄い者は信心獲得はあり得ないとしています。

(問)
 「宿善」とはどんなことか、二通りの読み方を示せ。
 また宿善が厚くなる順から三つあげよ。
(答)
○「宿世の善根」とか「善が宿る」とも読む。
  (1)熱心な聞法
  (2)五正行の実践
  (3)六度万行の実践 (『教学聖典(5)』)

宿善というのは過去世の仏縁のことであるが、過去に仏縁浅きものは現在において真剣に宿善を求めねばならない。でなければ宿善開発の時節到来ということはあり得ない。されば宿善は待つに非ず、求めるものである。(『白道燃ゆ』203頁)


ところが浄土真宗では宿善が厚くなる行として順番に聴聞、五正行、六度万行と教えられてはいませんし、宿善の薄い者は宿善を求めなければ助からないという教えではありません。「宿善」という言葉は文脈によって様々に意味が別れるところですが、蓮如上人は当流においては信心獲得することを宿善というのだと仰っています。

(234)
一 他宗には法にあひたるを宿縁といふ。当流には信をとることを宿善といふ。信心をうること肝要なり。さればこの御をしへには群機をもらさぬゆゑに、弥陀の教をば弘教ともいふなり。
(他宗では、仏法にあうことを宿縁によるという。浄土真宗では、信心を得ることを宿善が開けたという。信心を得ることが何より大切なのである。阿弥陀仏の教えは、あらゆる人々をもらさず救うので、弘教すなわち広大な教えともいうのである。)

これを踏まえて、親鸞会で宿善を求めよ、厚くせよという教えに利用している『聞書』のお言葉を見てみましょう。

(307)
一 陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日 陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。
(蓮如上人は、「万物を生み出す力に、陽の気と陰の気とがある。陽の気を受ける日向の花ははやく開き、陰の気を受ける日陰の花はおそく咲くのである。これと同じように、宿善が開けることについても、おそいはやいがある。だから、すでに往生したもの、今往生するもの、これから往生するものという違いがある。弥陀の光明に照らされて、宿善がはやくひらける人もいれば、おそく開ける人もいる。いずれにせよ、信心を得たものも、得ていないものも、ともに心から仏法を聴聞しなければならない」と仰せになりました。そして、すでに往生した、今往生する、これから往生するという違いがあることについて、上人は、「昨日、宿善が開けて信心を得た人もいれば、今日、宿善が開けて信心を得る人もいる。また、明日、宿善が開けて信心を得る人もいる」と仰せになりました。)

ここで言う宿善とは、日向の花ははやく開き日陰の花はおそく咲くのと同じように遅い速いがあると書かれていますし、後に「弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり」とあることからも、前の『聞書』にある宿善と同じく「信心獲得すること」という意味です。宿善の厚薄はここでは問題にされていませんので、宿善が薄い人は信心獲得が遅く、宿善が厚い人は信心獲得が速いという意味はありません。これを意図的にねじ曲げて、

遅ー宿善が薄い
速ー宿善が厚い


という意味だとして、宿善を求めよ、厚くせよと邪義を唱えているのが親鸞会です。『教学聖典(5)』には、

(問)
 「宿善に厚薄あり」と言われた蓮如上人のお言葉と、
 その根拠を示せ。
(答)
○宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり、
 弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く
 開くる人もあり。
              (御一代記聞書)


とありまして、上記のように結び付けて説明しています。

蓮如上人は宿善の有無を問題にされ、宿善の厚薄を問題にしている箇所は『御文章』や『聞書』にはありません。同じく親鸞聖人の教えを説いても、宿善の有る人はご法義を受け取るが、宿善の無い人にはかえって誹謗の元となるので、宿善の有無をよく見定めて宿善の有る人に当流の法を与えなさいと教えられています。

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。このおもむきをくはしく存知して、ひとをば勧化すべし。(3帖目12通)

二つには、ひとを勧化せんに宿善・無宿善のふたつを分別して勧化をいたすべし。この道理を心中に決定してたもつべし。しかればわが往生の一段においては、内心にふかく一念発起の信心をたくはへて、しかも他力仏恩の称名をたしなみ、そのうへにはなほ王法を先とし、仁義を本とすべし。また諸仏・菩薩等を疎略にせず、諸法・諸宗を軽賤せず、ただ世間通途の義に順じて、外相に当流法義のすがたを他宗・他門のひとにみせざるをもつて、当流聖人(親鸞)の掟をまもる真宗念仏の行者といひつべし。
ことに当時このごろは、あながちに偏執すべき耳をそばだて、謗難のくちびるをめぐらすをもつて本とする時分たるあひだ、かたくその用捨あるべきものなり。そもそも当流にたつるところの他力の三信といふは、第十八の願に「至心信楽欲生我国」といへり。これすなはち三信とはいへども、ただ弥陀をたのむところの行者帰命の一心なり。
そのゆゑはいかんといふに、宿善開発の行者一念弥陀に帰命せんとおもふこころの一念おこるきざみ、仏の心光かの一念帰命の行者を摂取したまふ。その時節をさして至心・信楽・欲生の三信ともいひ、またこのこころを願成就の文(大経・下)には「即得往生住不退転」と説けり。あるいはこの位を、すなはち真実信心の行人とも、宿因深厚の行者とも、平生業成の人ともいふべし。されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。
しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)と仰せられたり。これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。このゆゑに、宿善の有無の根機をあひはかりて人をば勧化すべし。(4帖目1通)

それ、中古以来当時にいたるまでも、当流の勧化をいたすその人数のなかにおいて、さらに宿善の有無といふことをしらずして勧化をなすなり。所詮自今以後においては、このいはれを存知せしめて、たとひ聖教をもよみ、また暫時に法門をいはんときも、このこころを覚悟して一流の法義をば讃嘆し、あるいはまた仏法聴聞のためにとて人数おほくあつまりたらんときも、この人数のなかにおいて、もし無宿善の機やあるらんとおもひて、一流真実の法義を沙汰すべからざるところに、近代人々の勧化する体たらくをみおよぶに、この覚悟はなく、ただいづれの機なりともよく勧化せば、などか当流の安心にもとづかざらんやうにおもひはんべりき。これあやまりとしるべし。
かくのごときの次第をねんごろに存知して、当流の勧化をばいたすべきものなり。
中古このごろにいたるまで、さらにそのこころを得てうつくしく勧化する人なし。これらのおもむきをよくよく覚悟して、かたのごとくの勧化をばいたすべきものなり。(4帖目5通)


これらの御文からお分かりのように、蓮如上人は人に仏法を話す際の注意として宿善という言葉を用いて話をしているのです。2帖目11通に出てくる五重の義にしても、4帖目15通に出てくる「宿善まかせ」にしても、上に挙げた3通の意味が分かれば、宿善の厚薄を問題にして宿善を求めよ、厚くせよと教えられたものでないことは分かると思います。ところでこの3通の中に、会員の方ならばよく見慣れたお言葉があるでしょう。普段は抜粋されたそこだけしか見ていないでしょうが、前後を含め、特に赤く示した部分を読んで頂きたいと思います。
宿善の有無の問題を宿善の厚薄の問題にすり替え、善の勧めなどと称して善もどきの善を推奨する輩は、まさしく本願毀滅のともがらです。大地微塵劫をへてながく三途に沈むのは一体どういう者であるのか。様々なブログやサイトで指摘がなされていても、不勉強な高森会長には一生理解できないでしょう。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード