ものさしたる根拠が示せないなら、親鸞学徒ではなく高森学徒

安心問答のコメント欄が盛り上がっています。事は、

「信心決定すると曠劫多生迷ってきた自己がハッキリ知らされる」と言ってしまった浄土真宗親鸞会高森顕徹会長(2月19日テレビ座談会に参加した方の情報より)

の記事に「会員」さんがコメントしたことに端を発しています。

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会員 2012/02/24 01:35
救われたなら、自己の三世がハッキリするのは、信心が阿弥陀仏より賜るものだからです。

阿弥陀仏の智慧と慈悲の結集である六字の名号をいただくのですから、凡智では測れない知覚のようなものがあっても不思議ではないでしょう。

そんな名号が私のものになったとき、それは「信心」と呼称されるということであって、あくまでそのもの柄は「六字の名号」なのです。

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それに対して幹部会員歴数十年さんが以下のようにコメントしています。

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幹部会員歴数十年 2012/02/24 06:56
『執持鈔』を出しましたが、読んでおられなようですね。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人(源空)の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。
(中略)
善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。



阿弥陀仏に救われたならば、死後のことが判るのかということについて、

・往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず
・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
・故聖人の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」
・故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなり


等々、死後のことをはからうべきではない、つまり凡夫にははっきり判らないということです。

・かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

自力を捨てて他力に帰すとは、すべて阿弥陀仏におまかせであり、阿弥陀仏の御心を正しく伝えて下された師と同じところへ往く、いうことです。極楽往き間違いなしと、はっきりするのではなく、阿弥陀仏にすべておまかせしたことがはっきりするのです。だから、阿弥陀仏の本願、そして本願を説かれた師の教えられている通り、極楽往き間違いなし、となるです。

阿弥陀仏、地獄、極楽、死んだらどこへ往くのかが、判るということではありません。

信心決定すると金剛心になるから大変わりする、と高森会長は教えていますが、これもおかしな解釈です。

二河白道の譬えを受けて、白道について『教行信証』信巻に

「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。

と教えられています。阿弥陀仏から回向された信心であるから、破壊されることがないということです。
その理由を次に

金剛といふは、すなはちこれ無漏の体なり

と『定善義』を引かれて仰っています。信心決定しても煩悩しかない有漏の身ですから、「無漏の体」とは阿弥陀仏の仏智です。阿弥陀仏から回向された信心が金剛心なのであって、信心決定した人の心が金剛心になるのではないのです。

『唯信鈔文意』にも

この信楽をうるときかならず摂取して捨てたまはざれば、すなはち正定聚の位に定まるなり。このゆゑに信心やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと金剛のごとくなるがゆゑに、金剛の信心とは申すなり

とあります。

また、信心決定すると日本晴れの心になると教えていますが、歪曲された誇大解釈です。

『尊号真像銘文』には

「摂取心光常照護」といふは、信心をえたる人をば、無碍光仏の心光つねに照らし護りたまふゆゑに、無明の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべしとなり。「已能雖破無明闇」といふは、このこころなり、信心をうれば暁になるがごとしとしるべし。

と仰っています。「暁」とは、夜明け前の薄暗い状態です。信心をえると、漆黒の無明の闇から、ほんのり明るさが加わった状態になるということです。

『浄土文類聚鈔』にも、

かならず無上浄信の暁に至れば、三有生死の雲晴る。

と表現なされていますように、夜明けの曙にもなっていないのです。信心決定したならば、相当のことが判ると思っている会員ばかりですが、信心決定しても判ることは僅かです。

信心を頂くと聞くと、、何かすごい形のあるものを頂くと思い込んでいるようですが、とんでもないことです。凡智は凡智のまま、凡夫の煩悩にまみれた心はそのままです。

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これに対する「会員」さんのコメントは以下の通りでした。

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会員 2012/02/24 09:32
信心いただいたなら、凡智から仏智になると、あたかも凡夫が覚者になるかのような意味に受け取られたのかもしれませんが、そのような意味ではありません。

現今の凡夫が悟りを開けるに値しないものであることは経典にある通りです。

救われて知らされるのは、地獄一定と極楽一定の自己、これだけです。

しかし、この姿がまさしく自己の三世の姿なのです。

地獄一定とは即ち、悠久の過去から苦しんできた自己。

極楽一定とは即ち、未来永遠に救われた自己。

換言すれば、この二種深信がたつところに、三世があることを知らされ、だからこそ言葉も絶えるような驚き、喜びが自然と湧き起こってくるのです。

それらのことが分かるようになる、というのが凡夫のはからいだと言うなら、救われても特に変わる訳ではない、というのも凡夫のはからいなのではありませんか。

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その後は親鸞会教義に固執し、幹部会員歴数十年さんの求める根拠は出てきていません。
もともと浄土真宗の話をしていたところ、「会員」さんが、

救われたなら、自己の三世がハッキリする

と言い出し、その自己とは

地獄一定と極楽一定の自己

と仰るので、どうしてそのように言えるのかその根拠を浄土真宗の祖師方のお言葉で示してもらいたいと求めているのです。「会員」さんは、根拠を敢えて出すなら二種深信のお言葉だと書いていますが、本人さんが仰っているように二種深信のお言葉の解釈に違いがあるようです。

『安心問答』の記事でも扱われていますが、二種深信とは他力の信心の説明であり、自力では出離できないと自力を離れ、ただ本願力によってのみ往生すると他力に帰したことを顕しています。捨自帰他、捨機託法ともいわれます。
その内機の深信の内容は、自分は罪悪生死の凡夫、煩悩具足の凡夫であり、善根薄少であるから迷いの世界を流転して出離できない、というものです。「われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず(執持鈔)」とあるように後生どのようなところに生まれるか自分の方からは分からないのですから、自己の三世がハッキリするということではありません。また「三界に流転して火宅を出でず(往生礼讃)」ですから地獄一定とは違います。この地獄一定というのが、迷いの世界を出離できないという意味であればよいのですが、親鸞会の場合は「地獄一定」=「必堕無間」を表しますから全く違います。更には自分だけでなく一切衆生が必堕無間と知らされるようなので完全に邪義ですね。
法の深信の内容は、迷いの世界を出離するのはひとえに阿弥陀仏の本願力によると、阿弥陀仏の救済にまかせ切ったことです。自己のことではないのです。こちらも同じく「われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず(執持鈔)」ですから、自己の三世がハッキリするということではありませんし、極楽一定の自己がハッキリするということでもありません。それに、三世に亘って極楽一定というのはおかしな話です。極楽一定の者がどうして今までずっと迷いを重ねてきたのか分かりません。元々極楽一定なら本願力をたのむ必要もないことになってしまいます。地獄一定の自己が正しいなら極楽一定ではないし、極楽一定の自己が正しいなら地獄一定ではありません。何とも謎な話です。
親鸞会ではこれを西田幾多郎氏の「絶対矛盾的自己同一」という言葉を借りて、こんな矛盾としか思えない世界を説かれる先生は高森先生しかおられないと喜んでいますが、そもそも二種深信の解釈に問題があるのです。二種深信は互いに矛盾した事実として誤解されやすいのですが、まさしく親鸞会のことです。

さて、「会員」さんは親鸞学徒であるはずですが、なぜに根拠に基づかずに自説ばかり展開しているのでしょう? 親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人のお言葉を出して、その意味を一字一字丁寧に説明する。会員時代、そういう人を親鸞学徒というのだと私は聞かされてきましたが、「会員」さんはその通り実践されていないのではないでしょうか? 浄土真宗の話なのですから、自説が正しいか間違いかは祖師方のお言葉をものさしとすることは当然でしょう。そのものさしたる根拠が示せないなら、残念ながら「会員」さんは親鸞学徒ではなく高森学徒です。今後も発言なしか、あるいは根拠もなく自説を展開するばかりならば、

獲信したら三世がハッキリわかるか

親鸞聖人 われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。(執持鈔)
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会員さん 自己の三世がハッキリする。地獄一定と極楽一定の自己がハッキリ知らされる。


ということで決定です。というより、もう決定しているようです。
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No title

私もこの一連のコメントをフォローしていましたが、「会員」さんの発言には何度も首をかしげました。なじみの方々が指摘されている部分以外でも、本当だろうかと思う点がいくつかありました。
特に以下のコメントは多いに疑問でした。

2012/02/24 01:35
そんな名号が@私のものになった@とき、それは「信心」と呼称されるということ

2012/02/27 21:35
一つ例を挙げれば、我々人間は動物の肉を食べますよね。
しかし、それを食すことは立派な殺生です。直接殺さずとも、他殺で同罪である、と@教学聖典@にもありますね。動物の肉体を八つ裂きにしたのですから、それに応じた報いを地獄で受けると考えれば、少しはその恐ろしさを感じるのではないのでしょうか。
ですから地獄の認識が有ろうが無かろうが、そのような世界に堕ちたことは@分かります@。

2012/02/27 22:33
もちろん救われてからも、未来永遠に地獄はすみかの者の自覚がありますから、同時に未来世も分かるのですが、@それ以上に@、[本願がまことだったとも同時に知らされますので、未来永遠救われることが知らされることにより、死後の世界(未来世)があると分かるのです。

あとコメントを通しで読んで疑問に思ったことは、この「会員」さんは三世を通してずっと地獄にいるんですかね。そういうように知らされたと私には理解したのですが。
長々と済みませんでした。

No title

親鸞会員は、親鸞聖人のお言葉を出して丁寧に説明するはずだったのに、放棄したようですね。
もともとお言葉通りではなく、丁寧に我流の説明をしていたので大きな違いはありませんが。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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