個人的な体験談を語ったり聞いたりすることによる弊害について

今日もまた 得意に話す 体験談

の記事に、谷口春子さんの獲信の体験エピソードを書きました。別に個人的な体験談を語ったり聞いたりしてはならないなどとはどこにも教えられていません。体験談を聞くことにより、実際に阿弥陀仏に救われるということがあるのだなと励みになったり、私もその教えを聞いてみたいと聞法心が起こったりする人もあると思います。ただ、個人的な体験談を語ったり聞いたりすることによる弊害があるのは確かです。それは、信前の者が体験談を基準にし、体験談の真似に走ることです。今、谷口さんのエピソードの中から少々抜粋してみますと、

・今、眠ったまま死んでしまったらどうしようと思うと、心配で心配でとうとう朝まで一睡もできませんでした。
・お坊さまの一言一言が、私の腹にピシッピシッとこたえました。
・本堂で阿弥陀仏のお姿をチラッと見た時『アァ、自分のような者は絶対助からん』と、もうこれ以上堕ちるところがないというところまで堕ちてゆきました。その地獄の底で生きた阿弥陀仏とお値いする事ができたのです。
・『ああ、ただ南無阿弥陀仏のまことひとつを信じさせて頂いたあとは何もない』と、おどり上がったその時の喜びはとても言葉にあらわされない、口で言えるようなちっぽけなものではありませんでした。泉の如く救われた喜びが湧き上がり、不思議不思議としか思えませんでした。


などと書かれています。信前の方はこういうのを見たり聞いたりすると、

・夜も眠れなくなる位後生が心配にならないと獲信はできないのだろうか?
・布教使の一言一言が、腹にこたえるようでないといけないのだろうか?
・阿弥陀仏に救われる直前は、これ以上堕ちるところがないというところまで堕ちるのだろう。
・信心決定したら、喜びが泉の如く湧き上がり、嬉しくて仕方なくなるのだろう。そうでなければ信心決定したとは言えないはずだ。


などと思わないでしょうか? 私は初めてこれを読んだ時、そう思いました。そして、夜も眠れなくなる位後生が心配になるにはどうしたらよいだろうかと計らったり、腹にこたえるような説法の聞き方をしようと意気込んだり、自分の中で今までしてきた身口意の罪悪を振り返って「お前はこんなに悪い奴なんだ。まだ分からんのか」と責めて堕ちよう堕ちようとしたり、早く嬉しくて仕方のない身になりたいと憧れたりしていました。私と似たようなことを思っている(いた)方、あるいはこれとは違ったことを思っている(いた)方がありましたら、煩わしくなければコメントを頂きたいと思います。

さて、体験談の真似に走りたくなる気持ちもよく分かりますが、そのようなことで信心は得られません。

・ただ信心はきくにきはまることなるよし仰せのよし候ふ(御一代記聞書105)
・ただ仏法は聴聞にきはまることなり(御一代記聞書193)


と言われるように、獲信には本願の名号を聞く一つです。「助けるぞ」の仰せを仰せのままに聞き受ける以外に信心はありません。南無阿弥陀仏一つにて私の往生は定まります。この他に何の不足もありませんし、私の方で本願力に付け足す何かは持ち合わせておりません。逆に私の方で付け足そうと計らっているから本願を聞けずにいるのです。そのような計らいも本願の仰せを聞くところに捨たりますので、余計な詮索は止めにして、直ちに本願他力に直入して下さい。
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No title

不特定多数の方が 閲覧されるブログで良いのかなって
思いつつ 

「『仏願の生起本末』を正しく知らないから 救われないのかな」と
思ったり 心か脳に バキューンと来るものを待っていました。(笑)
  
しかし、私の思いとは、全く関係ない本願でした。
私の計らいなど全くいらない、そのままの お救いでした。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

No title

はじめてコメントします。
私も同じでしたね。
同じ体験をしないと本物じゃないと思っていました。
しかし実際は全く違っていました。
これは一人一人それぞれなので何が正しいかなんて無いと思います。
体験は基準にすべきものではないのです。

親鸞聖人も、「雑行を捨てて本願に帰す」としか言われていません。

体験を強調すると一念覚知に陥いります。
しかし、何も無いと十劫安心になります。
一方、自力無効と知らされるのですから、何も変化がないということはありえません。
個人的な意見を言わせてもらえば、体験のあるなしにかかわらず、救われたら
必ず分かります。
ただ、自分一人で判断するのは危ないです。
いろいろな人に尋ねることが大事だと思います。

その上で最後は我が身の後生は如何に。
いずれにしても自分と阿弥陀様の関係になります。
一人一人についた阿弥陀様のおはからいの結果です。
私は、現在ただ今私に阿弥陀様が働いているとしか言いようがありません。

ところで最近の本願寺の勧学は、梯先生がやはり基準なのかな。
法主は信楽先生の方だと思うんですけど。
まあ、私の勝手な思いです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

コメント返信

とくよしみね様

ありがとうございます。

>その上で最後は我が身の後生は如何に。
いずれにしても自分と阿弥陀様の関係になります。

そうですね。ここが大事だと思います。阿弥陀仏の「後生助けるぞ」の仰せをそのまま受け入れ、後生を阿弥陀様におまかせしているかどうか。
私も、現に今働いている本願力を仰ぐとしか言いようがありません。


ため息様

親鸞会教義を真受けにしていたら、やはりそうなりますよね・・・。
このようなことを思っていたと誰かと打ち明けあうチャンスもなく、皆どのように理解していたのか気になっていたのでコメントを募集したのですが、私一人だけが特異なことを考えていたわけではないと知ることができました。ありがとうございました。

>しかし、私の思いとは、全く関係ない本願でした。
私の計らいなど全くいらない、そのままの お救いでした。

本当にそのままのお救いでしたね。そのまま聞く以外にないのに、どうしたら聞けるかなどと思い計らっていたそれまでの自分が恥ずかしいです。そんな自分をそのままお救い下さるという本願力にただただ脱帽です。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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