「なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふ」と教えながら、親鸞聖人のなされたようにしない高森会長

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一 前々住上人へある人申され候ふ。開山(親鸞)の御時のこと申され候ふ。これはいかやうの子細にて候ふと申されければ、仰せられ候ふ。われもしらぬことなり。なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふと仰せられ候ふ。
(蓮如上人に対して、ある人がご開山聖人ご在世のころのことについて、「これはどういうわけがあってのことでしょうか」とお尋ねしたところ、上人は、「それはわたしも知らない。どんなことであれ、たとえ、わけを知らないことであって、わたしはご開山聖人がなさった通りにするのである」と仰せになりました。)

この『聞書』のお言葉は、「本願寺はなぜ木像を本尊とし、親鸞聖人のなされた通り名号本尊にしないのか」という主張をする時に使われます(『親鸞会公式ホームページ』御本尊、親鸞聖人の仰せ通りに 根拠は至極の「本願成就文」)。あるいは、親鸞会は親鸞聖人のなされた通りにする団体であるとアピールする時にも根拠として用いたりもします。とは言いながら親鸞聖人の教えの教えられなかったこと、親鸞聖人の教えとは真逆なことばかり説いているのですが、更に高森会長はもっと悪質な使い方をしています。それが

『なぜ私は親鸞会をやめたのか』3.高森顕徹会長と絶対無条件服従
『安心問答』質問者「歎異抄をひらく」の「親鸞には弟子一人もなしーすべて弥陀のお弟子ーといわれたもの」について教えて下さい→高森顕徹会長「弟子は師匠の指示に従え」(2012年2月26日親鸞会二千畳座談会参加者から頂いた情報より)

などにあるように高森会長への無条件服従を強いる根拠、「弟子(講師部および全会員)は、師匠(会長)の指示に従うロボットになれ」という高森会長の意図の強制をする根拠としての使い方です。「善知識の仰せなりとも…(聞書192)」のお言葉と共に、「善知識(高森会長)の教え、指示に無条件服従せよ、そうしなければ後生助からないぞ」というカルト教義を会員に徹底させるために利用されているのです。

会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
上司の指示は会長先生の命と心得ます。(講師部聖則)


には、それが如実に表れています。一般会員にはそこまで無条件服従の強制はありませんが、幹部以上、まして講師部になりますと会長や上司の指示に従わない者は槍玉に挙げられてしまいます。

「仏教では」「仏教の伝統」などという言葉を使い、さも仏教界では弟子は師匠の指示に従う者であるという認識を植えつけ、だから「お前ら(講師部および会員)はオレ(高森会長)の指示に無条件に従え」と会員を自分の意のままに操りたいことは見え見えの高森会長ですが、親鸞聖人や蓮如上人はそのようには教えられていません。

一 専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。 弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。かへすがへすもあるべからざることなり。自然のことわりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと[云々]。(歎異抄第六条)
(同じ念仏の道を歩む人々の中で、自分の弟子だ、他の人の弟子だといういい争いがあるようですが、それはもってのほかのことです。この親鸞は、一人の弟子も持っていません。なぜなら、わたしのはからいで他の人に念仏させるのなら、その人はわたしの弟子ともいえるでしょうが、阿弥陀仏のはたらきにうながされて念仏する人を、わたしの弟子などというのは、まことに途方もないことだからです。つくべき縁があれば一緒になり、離れるべき縁があれば離れていくものなのに、師に背き他の人にしたがって念仏するものは往生できないなどというのは、とんでもないことです。如来からいただいた信心を、まるで自分が与えたものであるかのように、取り返そうとでもいうのでしょうか。そのようなことは、決してあってはならないことです。本願のはたらきにかなうなら、おのずから仏のご恩もわかり、また師の恩もわかるはずです。このように聖人は仰せになりました。)

故聖人の仰せには、「親鸞は弟子一人ももたず」(歎異抄・六)とこそ仰せられ候ひつれ。「そのゆゑは、如来の教法を十方衆生に説ききかしむるときは、ただ如来の御代官を申しつるばかりなり。さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもをしへきかしむるばかりなり。そのほかは、なにををしへて弟子といはんぞ」と仰せられつるなり。さればとも同行なるべきものなり。これによりて、聖人は「御同朋・御同行」とこそ、かしづきて仰せられけり。(御文章1帖目1通)


会員の皆さん、お分かりですか? 「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」「御同朋・御同行」ですよ。講師部聖則に無条件服従を謳っているあたり、高森会長は講師部員を弟子、あるいはそれ以下に見ていることは明らかです。親鸞聖人とは思想が根本的に異なるのです。親鸞聖人の立場なら、(敢えてお弟子さんと言いますが)お弟子さんに無条件服従を誓わせますか? 「なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふ」と教えながら、親鸞聖人のなされたようにしないのが高森会長です。自分につき従う講師部員さえそのように見ているのですから、会員の皆さんはどのように見られているか、それは言うまでもないことです。

「師であるならば、教えを説き、指示をして、そして求めさせる。行動させる。こういうことをやって初めて、師であり、その通り動く人は弟子ということになる。」

こうした言葉に表れているように、高森会長は、自分の指示通りに動く人形、ロボットが欲しいだけのただの子供です。そして、念仏ではなく善(勧誘、献金)をさせて私利私欲を満たしたいだけです。本当の浄土真宗の教えが知りたい、本願を信じ念仏したいと思われる方は即刻会長の元から立ち去るべきでしょう。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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