親鸞聖人がご門弟の方々に勧められた『自力他力事』に、三願転入の教えはない

ただ詮ずるところは、『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力』、この御ふみどもをよくよくつねにみて、その御こころにたがへずおはしますべし。(親鸞聖人御消息)

このように、親鸞聖人はお手紙にて『唯信鈔』(聖覚法印)、『後世物語聞書』(隆寛律師?)、『自力他力事』(隆寛律師)などをよくよく常に読んで、そのお心に違わないようにしなさいとお書きになっています。その内、本日は『自力他力事』を取り上げてみます。


【1】 念仏の行につきて自力・他力といふことあり。これは極楽をねがひて弥陀の名号をとなふる人のなかに、自力のこころにて念仏する人あり。

【2】 まづ自力のこころといふは、身にもわろきことをばせじ、口にもわろきことをばいはじ、心にもひがごとをばおもはじと、かやうにつつしみて念仏するものは、この念仏のちからにて、よろづの罪を除き失ひて、極楽へかならずまゐるぞとおもひたる人をば、自力の行といふなり。かやうにわが身をつつしみととのへて、よからんとおもふはめでたけれども、まづ世の人をみるに、いかにもいかにもおもふさまにつつしみえんことは、きはめてありがたきことなり。
そのうへに弥陀の本願をつやつやとしらざるとがのあるなり。さればいみじくしえて往生する人も、まさしき本願の極楽にはまゐらず、わづかにそのほとりへまゐりて、そのところにて本願にそむきたる罪をつぐのひてのちに、 まさしき極楽には生ずるなり。これを自力の念仏とは申すなり。

【3】 他力の念仏とは、わが身のおろかにわろきにつけても、かかる身にてたやすくこの娑婆世界をいかがはなるべき。罪は日々にそへてかさなり、妄念はつねにおこりてとどまらず。
かかるにつけては、ひとへに弥陀のちかひをたのみ仰ぎて念仏おこたらざれば、阿弥陀仏かたじけなく遍照の光明をはなちて、この身を照らしまもらせたまへば、観音・勢至等の無量の聖衆ひき具して、行住坐臥、もしは昼もしは夜、一切のときところをきらはず、行者を護念して、目しばらくもすてたまはず、まさしくいのち尽き息たえんときには、よろづの罪をばみなうち消して、めでたきものにつくりなして、極楽へ率てかへらせおはしますなり。
されば罪の消ゆることも南無阿弥陀仏の願力なり、めでたき位をうることも南無阿弥陀仏の弘誓のちからなり、ながくとほく三界を出でんことも阿弥陀仏の本願のちからなり、極楽へまゐりてのりをききさとりをひらき、やがて仏に成らんずることも阿弥陀仏の御ちからなりければ、ひとあゆみもわがちからにて極楽へまゐることなしとおもひて、余行をまじへずして一向に念仏するを他力の行とは申すなり。

【4】 たとへば腰折れ足なえて、わがちからにてたちあがるべき方もなし、ましてはるかならんところへゆくことは、かけてもおもひよらぬことなれども、たのみたる人のいとほしとおもひて、さりぬべき人あまた具して、力者に輿をかかせて迎へに来りて、やはらかにかき乗せてかへらんずる十里・二十里の道もやすく、野をも山をもほどなくすぐるやうに、われらが極楽へまゐらんとおもひたちたるは、罪ふかく煩悩もあつければ、腰折れ足なえたる人々にもすぐれたり。
ただいまにても死するものならば、あしたゆふべにつくりたる罪のおもければ、頭をさかさまにして、三悪道にこそはおちいらんずるものにてあれども、ひとすぢに阿弥陀仏のちかひを仰ぎて、念仏して疑ふこころだにもなければ、かならずかならずただいまひきいらんずるとき、阿弥陀仏、目のまへにあらはれて、罪といふ罪をばすこしものこることなく功徳と転じかへなして、無漏無生の報仏報土へ率てかへらせおはしますといふことを、釈迦如来ねんごろにすすめおはしましたることをふかくたのみて、二心なく念仏するをば他力の行者と申すなり。かかるひとは、十人は十人ながら百人は百人ながら、往生することにて候ふなり。かかる人をやがて一向専修の念仏者とは申すな り。おなじく念仏をしながら、ひとへに自力をたのみたるは、ゆゆしきひがごとにて候ふなり。あなかしこ、あなかしこ。



ちなみに『WikiArc』自力他力事に大まかな解説が載っていますので、こちらにも掲載しておきます。

本書の内容は、自力の念仏と他力の念仏との相違を明らかにし、他力の念仏を勧めるものである。
まず、自力の念仏とは、みずからの行いを慎み、悪事をとどめて念仏しようとするものであるが、実際には不可能であり、たとえできたとしても、極楽のほとり(辺地)にしか往生できず、そこで本願に背いた罪をつぐなった後、真実の浄土に往生するのであることを明かされる。
次に、他力の念仏とは、みずからの罪悪の深いことにつけても、ひとえに阿弥陀仏の本願力をあおぎ、願力をたのめば、常に阿弥陀仏の光明に照らされ、いのち尽きたときには、極楽に必ず往生せしめられることを明かされる。
最後に、迷いの世界を出て悟りの世界に至ることは、まったく阿弥陀仏の本願力によるのであり、念仏しながら自力をたのむということは、はなはだしい心得違いであると誡めて全体を結ばれている。
なお親鸞聖人が関東の門弟たちに与えられた消息から、繰り返し本書を書き写して与え、読むことを勧められたことがうかがわれる。



さて、『自力他力事』を読めば分かりますが、どこにも「18願の世界に出るまでに、19願、20願の行をやりなさい」などという内容はありません。それどころか「余行をまじへずして一向に念仏するを他力の行とは申すなり。」ですから、定散二善等の余行を交えている限りは他力の行とはいえないのです。親鸞会の誤った教義が、会員を自力に押し留めていることがよくお分かりでしょう。
親鸞聖人が関東のご門弟の方々に読むよう勧められたものの中に、親鸞会的「三願転入の教え」なるものは存在しないことが分かります。『自力他力事』の内容は、自力の念仏と他力の念仏の違いを示され、他力の念仏を勧められているだけと言っても過言ではありません。つまり18願だけを勧められているということで、19願や20願を勧める親鸞会のおかしさが余計に際立ちます。会員の皆さんには、早く権仮方便である19願、20願は捨て、18願一つを聞いて他力の念仏を称えて頂きたいと思います。それが阿弥陀仏のお心にかない、別しては親鸞聖人のお心にかなうことになるのです。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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