『教行証文類』の概要(6)ー本願力回向

『聖典セミナー教行信証[教行の巻]』(梯 實圓師)より引用

本願力回向

 本願力の力とは「力用(はたらき)」のことで、ものを動かす「ちから」のことです。本願に誓われたとおりに、十方の衆生を揺り動かして本願を信じさせ、名号を称えさせて、浄土へ往生させていくはたらきを本願力というのです。一般には、本願を信ずることと、念仏することは、私たちのなすべき事柄であり、信じ行じた功績に対する褒章として浄土へ生まれさせるのが阿弥陀仏のはたらきであって、それを本願力とも他力ともいうと考えていました。そのために、念仏はしているが救われるかどうか確信がもてず、つねに不安がつきまとい、臨終の正念を祈り、臨終の来迎を願い求めるようになっていました。このように本願を信じることも、念仏することも私の功績とみなしていることを自力というのです。

 それに対して親鸞聖人は、『無量寿経』の教えに遇うことも、念仏することも、決して私の力ではなく、本願力のはたらきのたまものであると受け取っていかれたのです。もともと阿弥陀仏に背くばかりで、本願を信じようとか、念仏しようというような殊勝な心は持ちあわせていなかった私を、念仏の衆生にしてくださったのは、まったく本願力のはからいのたまものでした。このように私を念仏の衆生に育て上げた本願力が、私を浄土へ生まれさせるのです。本願を聞いているものは、すでに本願力のなかに包まれており、念仏するものは、すでに阿弥陀仏のはからいに動かされていることを信知せよといわれるのです。

 『教行証文類』の「総序」に、「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(『註釈版聖典』一三二頁)といわれています。「行信を獲る」とは、「南無(信)阿弥陀仏(行)」を獲ることであり、具体的には本願を信じ念仏する身になっていることです。真実に背いて煩悩の泥沼に埋没している私が、仏を念ずる身になっているということは、私を念仏の行者たらしめ、真実にめざめさせようと久遠劫来願い続け、育て続けられた如来の本願力が、いま私のうえで念仏の花となって開いているのです。その遠い宿世の仏縁に謝念をこめて思いをはせよといわれているのです。

 このように、不可思議の本願力が、いま私のうえに届いて、念仏の声となって響きわたり、信心の智慧となって私を涅槃の浄土へと導き続けていることを、親鸞聖人は本願力回向といわれたのです。

 回向とは、回転趣向(進行方向を転換する)ということで、自分が獲得している善根を転換していくことです。さまざまな修行によって獲得した行徳を、世俗の名利の実現のために用いようとする想いを転換して、さとりの智慧の完成に向かおうと願い、また苦しみ悩む人びとに施し与えて救っていこうと願い、自他に安らかな涅槃が実現するようにと願っていくことを意味しています。しかし本願力回向といわれたときは、阿弥陀仏が一切の苦悩の衆生を哀れみ救うために、ご自身の徳のすべてを名号にこめて恵み与えていかれる大悲利他の活動を意味していました。その具体的なすがたが、往相と還相であり、教、行、信、証となって私たちのうえに実現しているわけです。


(p.12~p.14)



本願力回向の

「本願」
「力」
「回向」

のそれぞれの解説がこれで出揃いました。

「本願」…第十八願
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。(『註釈版聖典』一八頁)
「たとい私が仏陀になり得たとしても、十方世界のすべての衆生が、私の真実なる誓願を疑いなく信じ、わが国(浄土)へ生まれようとおもって、わずか十遍であれ、私の名を称えているのに、もし私の国に生まれることができないようならば、私は仏陀にはなりません。ただし五逆罪をつくり、仏法を誹謗しているようなものは除きます」

「力」…力用(はたらき)、ものを動かす「ちから」。

「回向」…回転趣向(進行方向を転換する)。自分が獲得している善根・行徳を、さとりの智慧の完成、また苦しみ悩む人びとに施し与えて救っていこうという想いに転換すること。


☆まとめです☆

「本願力回向」…阿弥陀仏が一切の苦悩の衆生を哀れんで本願を発され、本願に誓われたとおりに救うために、ご自身の徳のすべてを名号(南無阿弥陀仏)にこめて衆生に恵み与えていかれるという大悲利他の活動(はたらき)。その具体的なすがたが、往相と還相であり、教、行、信、証となって私たちのうえに実現している。



ここで衆生というのは、他の誰のことでもなく「この私」一人のことです。阿弥陀仏は一切の苦悩の衆生を一人も漏らすことなく救う徹底した救済者であるため、「十方衆生」と誓われています。それを親鸞聖人は、

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(歎異鈔)

と受け取っていかれました。十方衆生とは誓っておられるけれども、お目当ては「この私」一人だったのだと受け取っていくところに、私は阿弥陀仏の大慈悲を強く感じます。「この私」一人を助ける本願を他人事にせずに、本願に誓われたとおり只今救われ、念仏して下さい。

南無阿弥陀仏
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平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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