親鸞聖人がご門弟の方々に勧められた『自力他力事』に、三願転入の教えはない(2)

親鸞聖人がご門弟の方々に勧められた『自力他力事』に、三願転入の教えはない

には、親鸞会流「三願転入の教え」はないことを述べました。今回は、それも含めて親鸞会教義と異なる点を指摘したいと思います。

まずは「一切衆生必堕無間」の邪義についてです。『自力他力事』には、

・ながくとほく三界を出でんことも阿弥陀仏の本願のちからなり
・頭をさかさまにして、三悪道にこそはおちいらんずるものにてあれども


とあって、迷いの世界(三界、三悪道)から出離することは、ひとえに本願力によるものであると書かれています。どこにも「一切衆生は死ねば必ず無間地獄に堕ちる」などという邪義はありません。

次に、親鸞会の理屈として「自惚れ強い我々が一つの善もできない極悪人と知らされるには、真剣に善に励まなければならない」というものがあります。ところが、そのような事はどこにも書かれておりません。ここでは腰が折れ足が萎えて自分の力で立ち上がる方法もない人の喩えを出されていますが、「お前は自分の力で立てる、歩けると自惚れているんだから、力を尽くして立ち上がり、歩こうとしてみよ」と無理強いするような馬鹿なことは説かれていません。
第一、罪が深く煩悩にまみれた私達が極楽に参ろうと思い立つことは、腰が折れ足が萎えた人が遙か遠くのところへ行こうと思い立つよりももっと思いもよらない大変なことです。しかし、そういった自分の力では立ち上がれない人でも力持ちの担ぐ輿にやさしく乗せられたなら、十里・二十里の道も簡単に、野も山もたいしたことなく過ぎるように、私達はただいまにも死んでしまえば、朝夕に作ってきた罪の重さで、頭を逆さまにして三悪道に堕ちてしまう者ではあるけれども、ひとすじに阿弥陀仏の誓いを仰いで、念仏して疑う心が少しもなければ、必ず阿弥陀仏のお救いにあずかることができると教えられています。「我々に真実の善ができるかできないか、力を尽くして実地にやってみよ」というのは、腰が折れ足が萎えた人に「お前は歩けるか歩けないか、力を尽くして実地にやってみよ」と無理強いするのと同じ、いやそれ以上に馬鹿げたことです。

そしてそれが証拠に、お釈迦様はこうした他力念仏往生を私達にねんごろにお勧め下されているのであり、そのお釈迦様の教えを深く信じて二心なく念仏する者を他力の行者というのです。

ひとすぢに阿弥陀仏のちかひを仰ぎて、念仏して疑ふこころだにもなければ、かならずかならずただいまひきいらんずるとき、阿弥陀仏、目のまへにあらはれて、罪といふ罪をばすこしものこることなく功徳と転じかへなして、無漏無生の報仏報土へ率てかへらせおはしますといふことを、釈迦如来ねんごろにすすめおはしましたることをふかくたのみて、二心なく念仏するをば他力の行者と申すなり。

ですので、『観無量寿経』にて釈尊は阿難に定散二善等の余行を付属せず、念仏一行を付属されたのです。また、本願(第十八願)の中にさらに余行はなく、『大無量寿経』の三輩は共に第十八願によるため、一向専念無量寿仏と説かれていると法然聖人は仰るのです。

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。 「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。 すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。(選択本願念仏集)

一切の諸仏、諸菩薩、諸神を信じないことだけを一向専念無量寿仏と思ったら大間違いです。たとえそれらを信じず阿弥陀仏一仏に向かっているといっても、定散二善等の諸行を兼ねていたら一向専念無量寿仏とは言えないのです。

これが分かったら、蓮如上人の「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて(領解文)」等のお言葉が親鸞会流「三願転入の教え」なわけがないでしょう。諸行は雑行と言われ、最初から最後まで「捨てよ」です。親鸞会ではこれらのお言葉はみんな縦の線(信一念)に持っていきたいようで、「雑行が雑行と知らされ捨たるまで雑行をせよ」と何が何でも主張したいようですが、浄土真宗というからには善知識方の根拠を示して頂きたいものです。それができなければ、親鸞会の教えは親鸞聖人の教えにあらざる邪義であり珍説です。会員の皆さんは、そんな珍説を信じているからいつまでも獲信できないのです。ゆゆしきひがごとからは一刻も離れ、本願を信じ念仏申して下さるよう願うばかりです。
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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