信一念と現在を分けて考える親鸞会会員

親鸞会の会員さんが陥っている考え方として、

それは縦の線(信一念)のことで、そこまでは・・・しなければならない。

というものがあります。信一念と現在を分けるという発想です。よく親鸞会教義への批判に、こんな回答をしている会員さんを見かけた覚えがあります。もっと具体的に言うと、

・一念の救いとは縦の線(信一念)のことで、そこまでは横の線の軌道を進まなければならない。
・「雑行を捨てよ」というのは縦の線(信一念)のことで、雑行をやっていない者に言われるはずがない。そこまでは雑行をやっている自分だと知らされるまで善をしなければならない。
・「雑行を捨てよ」というのは縦の線(信一念)のことで、そこまでは雑行が問題になるところまで進まなければならない。
・「本願を聞く一つで助かる」というのは縦の線(信一念)のことで、そこまでは三願転入の道を進まなければならない。
・「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ(散善義)」というのは縦の線(信一念)のことで、そこまでは煩悩と闘って白道を進まなければならない。
・「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ(散善義)」というのは縦の線(信一念)のことで、水火の難に堕することを畏れていない者に言われるはずがない。そこまでは「行くも死、帰るも死、止まるも死」の三定死のところまで進まなければならない。
・『「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり(信文類)』とは縦の線(信一念)のことで、そこまでは聴(親鸞会では高森会長の話を聞くこと、廃悪修善を実践すること)を重ねていかねばならない。


などです。高森会長の話の整合性、祖師方のお言葉と親鸞会教義との整合性を計るためにこう考えるのです。というか、これ以外思いつかないというのが実態でしょう。
会員としては、祖師方のお言葉も高森会長の教えもどちらも否定することはできません。祖師方のお言葉を取り、高森会長の教えを捨てることができたらよいのですが、会長信心の堅固な会員にとってはどだい無理な話です。どちらの説も否定せず、かつ高森会長の正しさを説明するにはどうすればよいか? それで、現在と信一念を分けて考えるようになったのでした。そしてこれが、現在の自分が救いにあずかれない理由として最も適切であると思い至ったのです。

しかし、この考えは平生業成に反しています。平生業成とは、臨終を待つまでもなく、平生に他力の信心をえたそのときに浄土に生れることが確定することです。平生と臨終は大分違うように思えて実は隣り合わせですから、平生とはつまり現在只今のことで、現在只今他力の信心を得て往生が定まるということです。一応親鸞会の定義を確認しておくと、『なぜ生きる』には

「人生の目的が現在に完成する(p.4)」

と書かれています。これから求めていった先の未来ではなく、現在と書かれているのに注目です。では、

それは縦の線(信一念)のことで、そこまでは・・・しなければならない。

という考え方はどうかと言うと、現在は救われず、これから求めていって縦の線(信一念)に辿り着いた時、すなわち未来に救われるというものです。これでは、仮に縦の線(信一念)に辿り着くのにあと3日かかる人がいたとして、その人が今晩無常の風に誘われたらアウトということになります。平生業成ではありません。
「だから急がねばならないのだ」と会員さんは仰るかも知れませんが、それは「しばらくは死なない」という前提ありきの話です。極論として、あと一秒しか命のない人はどうですか? 皆さんの尊敬している高森会長は『なぜ生きる』に以下のように書いています。

「弥陀の悲願は徹底しているから、一刹那に臨終の迫っている、最悪の人を眼目とされている。もしあと一秒しか命のない人に、三秒かかるようでは救えない。一念の救いこそが、弥陀の本願(誓願)の主眼であり、本領なのだ」(p.343)

これは『口伝鈔』の、

如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。

のお言葉を解説したものですが、この考えはまた、「多念をもつて本願」とするのと発想が同じであって「一念往生」でもありません。高森会長の言葉でいえば「一念の救い」でもないことが分かります。

では、高森会長は正しく教えを説いていて、会員の皆さんが聞き損なっているのかというとそうではありません。高森会長はこのようなことを書いている一方で、お決まりの縦と横の線と人の図を書いて、縦の線を指して「ここまで進め」とも説いています。これらのどちらも正しいと結びつけるには、現在と信一念を分けて考えるより他に考えようがないというだけのことです。会員さんは会長がその場その場で言うことを都合よく脳内変換して教義の整合性を保っているのです。というか、会長信心があると脳内変換せざるを得ないのです。しないと整合性が崩れてしまいます。
本願の救いにあずかるに、私の方からどこかへ向かっていくというのは自力回向的な発想です。「救いは一念だが、そこまでは・・・」というのは平生業成、一念往生に反する考え方です。高森会長がその場その場で言うことに踊らされて、祖師方のお言葉と親鸞会教義との整合性、そして親鸞会教義内での整合性を保とうとした結果、会員さんの理解は真宗の信心とは似ても似つかぬものになっています。それを「聞き誤り」だと言われては、会員さんはお気の毒というより他にありません。



【参照】
友人が矛盾と感じ、指摘した「一念の救い」
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そのように現在と信一念を分ける事もそうですが、人生の目的=絶対の幸福を目指す事など、会員さんは不死というものを非常に強く望んでいるように感じます。
しかし、死は私達がどう足掻いても確実なものです。
そしてまた、阿弥陀様のお救いも同じく確実なのですが…会員さんはこちらも分けてしまっているのでしょうか。

>F様

不死というよりは、この世を幸福に生きたいという願望を抱いているのだと思います。後生を人質にとられ、それが解決できたらこの世から最高の幸せになれると信じて、我慢して活動しているのでしょう。

ところですみません。Fさんは、会員さんがどれとどれを分けてしまっていると仰っているのでしょうか? 今一つはっきりしませんでしたのでコメントを頂きたいと思います。

大変申し訳ありません。
後半部分は消したつもりの文章でした。半端に残ってしまってて我ながら訳わかりません。。

>F様

了解です。お気になさらず(^^ゞ

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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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